Foreign Dignitaries

ユリシーズ・S・グラント大統領

ユリシーズ・S・グラント大統領 (1822年4月27日~1885年7月23日)は、岩倉使節団と明治天皇の双方に強い印象を残しました。グラント大統領は、アメリカの大アジアとの外交関係を発展させることに強い関心を抱いており、1872年にアメリカを訪問した岩倉使節団をホワイトハウスに迎え入れました。会談の間、グラント大統領には独自のソフト外交(非強制的な説得)的狙いがあり、岩倉使節団の意図した条約締結のための調整には応じませんでした。岩倉使節団はこの点で失敗しましたが、グラント大統領の人柄とホワイトハウスの歓迎的な環境に感銘を受けました。1879年、グラント大統領は訪日し、74日間にわたって滞在します。明治政府の中心的指導者と会い、天皇や政府上層部のエリートらと幅広く対話しました。

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森有礼

森有礼(1847年8月23日〜1889年2月12日)は、日本初の駐米大使です。岩倉使節団の渡航を支援し、使節団とグラント大統領との会談を実現させました。森はユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで受けた教育を通して、西洋の教育思想に関心を抱くようになりました。中でも、言語学者ウィリアム・ドワイト・ホイットニーに宛てた書簡で、英語を日本の国語とすることを提案しています(その提案は実現しませんでした)。1886年から1889年まで文部大臣を務めた森は、日本の教育制度に西洋中心の改革を行い、それは「森式改革」と呼ばれました。

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チャールズ・デ・ロング

チャールズ・デ・ロング(1832年8月13日〜1876年10月26日)は、駐日大使を務めたアメリカの外交官で、岩倉使節団のアメリカ各地への訪問を支援した人物です。夫人のエリダ・デ・ロングは、使節団とともに派遣された5人の女子留学生の付き添いをし、アメリカの教育制度を体験させる後押しをしました。

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ミラード・フィルモア元大統領

1872年7月14日、ミラード・フィルモア元大統領(1800年1月7日〜1874年3月8日)は、岩倉使節団が滞在していたワシントン D.C.のホテルにて、私的な招待により団員らと会いました。1852年の大統領在任中には、かのペリー遠征でマシュー・ペリー提督を日本に派遣し、日本に開国を認めさせました。

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岩倉使節団はこのほかにも、数多くの政治家、産業界のリーダー、歴史上の重要人物と面会しています。

スカイラー・コルファクス(1823年~1885年)。グラント大統領下の副大統領。 (1823 – 1885). U.S. Vice President under President Grant.

ハミルトン・フィッシュ(1808年〜1881年)。アメリカ国務長官。

ジョージ・S・バウトウェル(1818年〜1905年)。アメリカ財務長官。

ジョージ・M・ロブソン(1829年〜1897年)。アメリカ海軍長官。

ウィリアム・W・ベルナップ(1829年〜1890年)。アメリカ陸軍長官。

チャールズ・W・ブルックス(1833年〜1885年)。在サンフランシスコ日本領事。

ナサニエル・P・バンクス(1816年〜1894年)。下院議員。

ウィリアム・アルフォード(1833年〜1904年)。サンフランシスコ市長。

ウィリアム・ジェニングス(1823年〜1886年)。ソルトレイクシティ市長。ユタ州初の大富豪。

ジョセフ・メディル(1823年〜1899年)。シカゴ市長。

ヘンリー・D・クック(1825年〜1893年)。ワシントンD.C.市長。

フィリップ・H・シェリダン(1831年〜1888年)。南北戦争で活躍したアメリカ陸軍大将(叙勲受章者)。

ブリガム・ヤング(1801年〜1877年)。モルモン教第2代大管長。ソルトレクシティの創設者。

ウィリアム・C・ラルストン(1826年〜1875年)。カリフォルニア銀行創業者。

アルフレッド・A・コーエン(1829年〜1887年)。セントラル・パシフィック鉄道の主任弁護士。

ジェイ・クック(1821年〜1905年)。アメリカの資本家。南北戦争期に北軍の資金を調達した。

Source:
Kume, Kunitake. Japan Rising: The Iwakura Embassy to the USA and Europe, edited by Chushichi Tsuzuki and R. Jules Young, 85. Cambridge: Cambridge University Press, 2009. doi:10.1017/CBO9780511721144.