随行留学生

大山捨松

大山捨松(1860〜1919)は、アメリカで教育を受ける為に岩倉使節団に派遣された5人の少女の内の1人でした。 彼女は当初、コネチカット州ニューヘブンに住んでいましたが、その後ニューヨーク州ポキプシーに移り、ヴァサー大学に通いました。 優等で卒業することに加えて、大学の学位を取得した最初の日本人女性となりました。 又、1882年に日本に戻る前に看護学の学位も取得しました。彼女は日本語の読み書きは出来ませんでしたが、階級社会を登り詰め公爵夫人となりました。そして、女性の為のいくつかの学校の設立に尽力し、そのうちの一つは後に津田塾大学になりました。

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瓜生繁子

瓜生繁子(1862年から1928年)(出生名:益田しげ、旧姓:永井繁子)は10歳で岩倉使節団に参加し、留学しています。 ニューヘイブンの高校を卒業後、ヴァッサー大学の大山捨松の同窓となります。瓜生は1881年にヴァッサー大学音楽学校の修了証書を授与され、その後すぐに帰国しています。その後、男爵夫人の称号を受け、ヴァッサー大学に戻って女性教育に関する講演を行い、東京音楽学校でも教鞭をとることになります。

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津田梅子

津田梅子 (1864年から1929年)は、岩倉使節団とともにアメリカ留学に派遣された5人の少女のうち、最年少のメンバーでした。 彼女はワシントンD.C.で日本弁務館書記のチャールズ・ランマン夫妻と暮らしています。小・中学校を卒業後、18歳で日本に帰国しています。彼女は、伊藤博文の子供たちの家庭教師を務めたり、女子校で教鞭を取ったりした後、再度アメリカに戻ってブリンマー大学に通いました。大学を卒業後、日本に帰国し、日本女性に対する教育の必要性を熱心に唱え始めます。彼女はその後、大山捨松妃とともに女子英学塾(後の津田塾大学)を創設しています。

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吉益亮子

吉益亮子(1857年から1886年)。5人の少女からなる岩倉使節団最初の女性団員の一人です。健康上の問題で数カ月で帰国しています。彼女が14歳の時です。

上田悌子

上田悌子(1856年から1939年)。5人の少女からなる岩倉使節団最初の女性団員の一人です。ホームシックにかかり帰国しています。14歳でした。

他の随行留学生

金子堅太郎 (1853-1942). 19歳.

大久保彦之進 (1859-1945). 13歳.

牧野伸熊 (1861-1945). 11歳.

岩下長十郎 (1853-1880). 19歳.

山縣伊三郎 (1858-1927). 15歳.

鍋島直大 (1846-1921). 26歳.

松村文亮 (1840-1896). 32歳.

百武兼行 (1842-1884). 29歳.

吉川重吉 (1860-1915). 13歳.

黒田長知 (1839-1902). 34歳.

団 琢磨 (1858-1932). 14歳.

江川英武 (1853-1933). 19歳.

森田忠毅 (1844-1917). 28歳.

鳥居忠文 (1847-1914). 25歳.

大村純熙 (1830-1882). 41歳.

清水谷公考 (1845-1882). 27歳.

坊城俊章 (1847-1906). 25歳.

武者小路実世 (1851-1887). 21歳.

平田東助 (1849-1925). 23歳.

松崎万長 (1858-1921). 21歳.

日下義雄 (1851-1923). 21歳.

中江篤助 (1847-1901). 25歳.