1917 - 1918
紐育美術日本協会の展覧会

アメリカ東海岸に位置するニューヨークは、19世紀末にヨーロッパから多くの人々が移民として渡り、経済、産業、文化の中心として栄えた都市でした。またニューヨークは商業貿易を目的とした日系企業の支店も置かれ、20世紀初頭には官吏や企業関係者を中心に日本人社会が形成されました。 様々な文化が交錯する当地は、日本の美術学校で学んだ芸術家がヨーロッパに渡る中継点として一時的に滞在したほか、出稼ぎ目的の移民として渡米した後、アメリカの美術学校で学んだ日本人芸術家が集まってきました。 

このような芸術家を中心に1915年頃に紐育日本美術協会という芸術家の団体が組織されます。ニューヨークで発行されていた日本語新聞によると、1915年11月に紐育日本美術協会の懇親会が日本倶楽部で開かれました。この芸術家の会合は、東京美術学校の洋画撰科を卒業した画家、葦原曠が司会を務め、中村巍総領事や高峰譲吉(日本倶楽部会長)、瀬古孝之助(三井物産株式会社紐育支店長)、一宮鈴太郎(横浜正金銀行紐育支店長)、家永豊吉(哲学博士)、牛窪第二郎(山中商会支配人)といった日本人会の幹部や日系企業の重役が出席していることから、ニューヨーク日本美術協会は日系企業の支援があったと考えられます。同会の席上、高峰譲吉は日本人の美術思想を応用し、日本製の陶磁器を中心とした貿易の発展を期待するという趣旨のスピーチをしていることから、ニューヨークに支店を置く日系企業は、欧米諸国への輸出を意図した東洋風の美術品の創作を日本人芸術家に求めたのでしょう。

Fig. 1. 古田土雅堂《曇》

この後、1917年3月に紐育日本美術協会の展覧会が山中商会のギャラリーで開催されます。この展覧会には、香川(I. Kagawa)、古田土雅堂(T.K. Gado)、和気(T. Wake)、霜鳥之彦(S. Shimotori)、葦原曠(K. Ashiwara)、小野(T. Ono)、濱地清松(S. Hamachi)、宇和川(M. Uwagawa)、槌屋(M. Tsuchiya)、鷹栖(I. Takanosu)、菊地東洋(T. Kikuchi) の油絵、水彩画、建築図案、写真の合計75点が展示されました。

会場となった山中商会は、山中定次郎が大阪で創業し、19世紀末から20世紀にかけてロックフェラー家(Rockefeller)、ヴァンダーヴィルト家(Vanderbilt)、フリーア(Charles Lang Freer)、ボストンのスチュアート・ガードナー夫人(Isabella Stewart Gardner)やフェノロサ(Fenollosa)、ハヴマイヤー(H.O. Havemeyer)など、日本美術のコレクションを所有する美術館の基礎を築いたコレクターを顧客に、ニューヨーク、ボストン、ロンドンに支店を置く美術商でした。そのため1917年の日本美術協会の展覧会には、東洋美術に傾倒した作品も出品されていたことが想像できるでしょう。

紐育日本美術協会の展覧会について『アメリカン・アート・ニュース』は、下記のように評価しています。

「日本人の作品は、着想と西洋画を適応させようと努めていることが表れていて大変興味深い。これらの作品は芸術の価値と別に、明確に商業的である。しかし彼らのうち少なくとも二人は有名な出版社に勤めるファッションデザイナーだが、彼らの作品には東洋と西洋が混ざっていることが非常によく表れているため、完全に商業的創造であるという印象はない。建築図案は展示の興味深い部分である。鷹栖の《居間の暖炉》と小野の二つの素描、《アメリカの郊外の家》、《室内装飾の組み合わせスタイル》は日本の着想を西洋風に変更したよい例である」

(“Young Japanese Artists’ Display” American Art News, March 17, 1917).

Fig. 2. 霜鳥之彦《茶瓶》

いっぽう『紐育新報』には、下記のように批評しました。

「油絵のうち人物画の出品者は濱地君と宇和川君で前者は米国風画であり後者は仏蘭西流の趣致を備へて居る。」「日本を題材としたものには至上の感激を表現すべき芸術の境地を脱して、徒らに祖国の追想に過ぎない結果を示して居る、語を更へて云へば甚だ生命の希薄なものになって居る。霜鳥君の化粧の図や和気、雅堂君等の作品にも如上の言を加へることが出来る、更に言へば米人の異国趣味即ち東洋憧憬に迎合したかの感がある」

(岡田九郎「美術手帳 在紐日本美術家の作品展覧会を観て」『紐育新報』1917年3月21日)


また『日米週報』ではこのように伝えています。

「鷹栖君の純日本式食堂を欧化せしめたる所一種の風味を覚ゆべく小野君の田舎家の床の間の和洋折衷の模範画と云ふべし和気君の装飾室と日本美人は其配色の点に於て人目を惹くに足るべく土屋君の屏風は面白き意匠にて米人の嗜好に適中するものの如し」「 霜鳥君のチーポット葦原君の高架線上の夜汽車浜地君の人物画等何れも推賞するに足らん」

(エス ワイ生「邦人の美術展覧会を観る」『日米週報』1917年3月24日)

 

この展覧会が開かれた当時、アメリカ美術界では写実的技法によるアカデミー派の作品やヨーロッパで起こった立体派、未来派といったモダニズムの作品が発表されていました。そのため、紐育日本美術協会の展覧会は、当時のアメリカの美術展覧会と比べて東洋趣味の作品や応用美術が目立ち、それらはジャポニズムの模倣として時代遅れだと批判されたのでしょう。

Fig. 4. 浜地清松《五番街》

山中ギャラリーでの展覧会から1年後の1918年2月2日から2月10日に紐育日本美術協会はマク・ドーウェル・クラブで第2回展覧会を開きます。 ここには、葦原曠、古田土雅堂、浜地清松、堀一郎、犬飼恭平、木元、国吉康雄、坂口、霜鳥之彦、寺ジョージ、槌屋、宇和川の油絵55点が展示されました。

この展覧会を『トリビューン』は、下記のように批評しました。

「日本の美術においてこれほど装飾芸術のシンプルさが高く評価された例はほとんどない。古田土雅堂の《茸狩》〔図2〕は、日本の女性を描いているが、背景は西洋画であり、そのため「ごちゃまぜ」になっている。浜地の《ヌード》はフレッシュな上品さがあり、《冬の日》は上手に描かれている。寺ジョージは、魅力的な色彩と共感を与える肖像画がいくつかある。《赤い袖》は緋色と紺色とくすんだ金色の際立つ色の組み合わせになっている。宇和川の大きな油彩画、《花》は新鮮な色彩で装飾的に扱われている。霜鳥之彦の静物画は気取らない小さな作品だが、線とカラーの調和が注目を集めている。」

(“Art” New York Tribune,Feb. 3, 1918)

Fig. 3. 古田土雅堂《茸狩り》

『日米週報』はこのように批評しました。

「時代遅れと未成品 見渡す処時代遅れと未成品揃の展覧会であると案内役の蚊詩朗が失望した様な皮肉な様に云ふ、成程霜鳥君の「静物」、寺君の「肖像」位が物になって居る丈けで其の他は蒼白いセンチメンタリズムであったり衒気と稚気に満ちた後期印象派の模倣であったりして画家其人の内面生活の芸術的活躍が乏しい、それには今少しく思想を深め腕を練る必要がある。」

(黄四郎「紐育の画壇『二展覧会拝見記』」『日米週報』1918年2月8日)


また『紐育新報』では、このようにリーポートしています。

「世に謂ふ足取相撲なるものあり、[…] 相撲と芸術とは同日に談ずべきものに非れど、本会展覧会の多少是に類する空気あるを遺憾とす、東洋人に生れたる特権を利用し発揮するを妨げずとするも、東洋趣味の濫用の弊は無き哉、米人美術報道記者が(敢て報道記者と言ふ)佳品なりとして指摘する作品が余りに足取相撲の勝利に似たるものなるを見る時吾人は真に苦笑なきを得ず。」

(岡田九郎「日本美術会漫録」『紐育新報』1918年2月13日)


紐育日本美術協会の展覧会は、欧米人が好むような東洋趣味の作品や、西洋画の模倣から脱しきれていない作品が目立ったことから、1910年代の日本人による西洋画の創作は黎明期だったといえるでしょう。