画像資料一覧

Ch. 1, Fig. 1

古田土雅堂《曇》(1917年頃)

《曇》と題された本作品は、1917年の紐育日本美術協会の展覧会に出品された作品だと考えられます。右側には鬼のような姿が描かれ、左側には鬼から逃げるように、脅えた表情の天女が描かれています。

ふみの森もてぎ

Ch. 1, Fig. 2

霜鳥之彦《茶瓶》(1916年頃)

《茶瓶》と題された本作品には、花模様のテーブルクロスが掛かったテーブル、中央に配置された茶色の急須と、その奥に緑色のティーセットが描かれています。

霜鳥之彦遺作展 図録(1983年)

Ch. 1, Fig. 3

古田土雅堂《茸狩り》(1917年頃)

森の中に着物を着て、日本髪にかんざしをさした4人の女性が描かれています。一番左の女性はキセルを手にしています。また、その隣の女性は栗を手にしています。右側でかがんでいる女性はどうやら茸を見つけたようです。紅葉した木々の葉や女性たちの着物の裾の朱色が東洋風な風情を添えています。日本の風物を題材にした西洋画の作品です。

ふみの森もてぎ

Ch. 1, Fig. 4

浜地清松《五番街》(1918年頃)

ビルの窓からは翻る星条旗、画面奥にはニューヨークの5番街と23丁目のブロードウェーに立つフラット・アイロンビルが見えます。ニューヨークの5番街を描いた本作品は、「チャイルド・ハッサム(Childe Hassam)に発想を得たようだと批評されたとおり、チャイルド・ハッサムの《Flags on the Waldorf》に構図が良く似ています。

個人蔵

Ch. 2, Fig. 5

画彫会展覧会の集合写真(1922年)

画彫会の展覧会の会場で撮影された集合写真です。 前列中央に古田土雅堂、前列の右端で横を向いて写っているのは国吉康雄です。そして後列一番左端に石垣栄太郎、二列目左から2人目が犬飼恭平、後列左から4人目が清水登之です。

Ch. 2, Fig. 6

画室の石垣栄太郎 (Evening Telegram New York 1922 Nov. 4)

「若き日本人画家、アメリカ人男女に奇妙なコントラストを見出す」(『イブニング・テレグラム』1922年11月4日付)。

Ch. 2, Fig. 7

古田土雅堂《家庭》(1922年頃)

茶色を基調とした室内を背景に、家族5人がテーブルを囲んで団らんする様子を描かいています。六角形の部屋の壁面と、その真ん中に灯る電灯、食卓を囲む家族は食事の前の御祈りをしているのでしょうか。温かいぬくもりが感じられます。

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Ch. 2, Fig. 8

古田土雅堂《街路》(1920年頃)

画面の後方に林立するのは、ニューヨークのビル群、そして中央より少し上に、黒く横に走る線は、高架鉄道でしょう。画面の前方には、無数の幾何学的な線により、大通りを走る馬車の列や、道路を行き交う人々の様子を描かれ、今にも街の雑踏が聞こえてきそうな作品です。

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Ch. 2, Fig. 9

古田土雅堂《地下鉄のラッシュアワー》(1918年頃) (1919年独立美術家協会展)

ラッシュ時の混雑した地下鉄の車内の様子を幾何学的な線で描いています。本作品は1919年の第3回独立美術家協会展にも出品されました。 『日本人』では「あの現代世相の一場面とも見らるる「ラッシ アワー」の空気のムーブメントを巧みに捕へている。最近作らしい「家族」は益々圓熟して、そして落付いて来たやうだ」(草二「画彫会を見て」『日本人』97号、1922年10月25日)と評価しています。

独立美術家協会展図録(1919年)

Ch. 2, Fig. 10

平本正次《ロダン》(1922年頃)

彫刻家の平本正次は、《ロダン》《ブッダ》、《ジョフル》を出品しました。

独立美術家協会展図録(1922年)

Ch. 3, Fig. 11

サロンズ・オブ・アメリカ会場写真(1922-1923年頃)

1917年に独立美術家協会、1922年にサロンズ・オブ・アメリカがそれぞれ設立され、無審査、無賞の年次展覧会が開かれます。これらの展覧会は、国籍や技法を問わず誰でも出品が可能だったことから、多くの日本人が作品を発表しました。

Ch. 3, Fig. 12

萩生田真陽 《赤い風呂》(1918年頃)

1918年の第2回独立美術家協会展に出品された、萩生田真陽の《赤い風呂》は、曲線を基調にして日本の公衆浴場を描いた作品です。公衆浴場を知らない当地の人々は、作品の題名に驚いたようです。

独立美術家協会展図録(1918年)

Ch. 3, Fig. 13

古田土雅堂《地下鉄のラッシュアワー》(1918年頃) (1919年独立美術家協会展)

『紐育新報』には、混雑した地下鉄の車内の様子を幾何学的な線で描いたこの作品を「未来派的ムードを遺憾なく、心持ちの好い筆触と整然とした調和とで表現している。」と評価されています。(石垣坩堝「独立美術協会の日本人画家」『紐育新報』1919年4月2日)

独立美術家協会展図録(1919年)

Ch. 3, Fig. 14

古田土雅堂《災難(アクシデント・怪我)》(1919年頃) (1919年独立美術家協会展)

高架鉄道の下の街路に茶色の外套と黒の外套を着た警官のような二人の人物がいます。彼らの足元には黒い塊のように地面に倒れている人物が見えます。交通事故の現場なのでしょうか、彼らの周りを多くの人が取り囲んでおり、事故の現場の緊迫した様子を表しています。

ふみの森もてぎ

Ch. 3. Fig. 15

古田土雅堂《街路》(1920年頃) (1921年独立美術家協会展)

ニューヨークの下町のビル群を背景に、黒く横に走る高架鉄道の線路が見えます。通りを走る馬車の列や道路を行き交う人々の姿が、無数の幾何学的な線によって浮かび上がり、今にも街の雑踏が聞こえてきそうな作品です。 『日米時報』では「雅堂氏の作は常に独得の着想技巧及調色に於て興味を以て観られる、氏は都会生活の雑踏を捉へてその交錯雑景を描写するに未来派の画法により韻律的にその動勢を画面に活躍せしめてをる「街路」はその雑踏する車馬の交通をよく表現している」とあります。(「独立美術協会展展覧会 日本人画家作品印象記」『日米時報』1921年3月5日)

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Ch. 3, Fig. 17

古田土雅堂《舞踏会》(1921年頃) (1922年独立美術家協会展)

1922年の独立美術家協会展に出品された《舞踏会》です。大勢の男性と女性がペアになってダンスを踊る様子を幾何学的な曲線と鮮やかな色彩で表現した、舞踏会の躍動感あふれる作品です。

ふみの森もてぎ

Ch. 3, Fig. 20

古田土雅堂《幼児》(1922年頃) (1922年サロンズ・オブ・アメリカ)

遠くに山を望む森林の中、木陰でベンチに座り幼児を抱く女性と、その隣で幼児の顔を除き込むようなポーズをとる人物、彼らの足下には犬がのんびり寝そべる姿が描かれています。木々の緑があたたかい季節を思わせます。幼児を抱く女性の左後ろには牛のような動物も見えます。昼下がりの一場面を切り取ったような作品です。

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Ch. 3, Fig. 21

古田土雅堂《ブロックパーティー》(1922年頃) (1923年独立美術家協会展)

ニューヨークのビルの谷間で帽子をかぶって躍る大勢の男性と女性の姿が見えます。中央の赤い洋服を着た女性とその周りで躍る人物を曲線で描いており、リズムミカルな音楽やパーティーの熱気までも伝わってくるようです。

ふみの森もてぎ

Ch. 3, Fig. 24

古田土雅堂《救急搬送》(1920年頃) (1923年サロンズ・オブ・アメリカ)

下町のテーネメントの一室からタンカで運び出される人物、それを取り囲む見物人を描いた作品です。時刻は既に日も落ちた夜でしょうか、中央のタンカに載せられ搬送される人物が明るい色彩で描かれ、建物から迅速に運び出される様子が描かれています。

ふみの森もてぎ

Ch. 3, Fig. 25

古田土雅堂《地下鉄の雑踏》(1923年頃) (1924年独立美術家協会展)

1924年の独立美術家協会展に出された《地下鉄の雑踏》、ラッシュの地下鉄の連絡階段を上から見下ろすような構図で描いています。到着したばかりの地下鉄から下りた大勢の人物は曲線を基調にして描写し、混雑した駅の様子を躍動的に表しています。

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Ch. 3, Fig. 16

清水登之《ヨコハマ・ナイト》(ヨコハマの印象、横浜夜景、Impression of Yokohama)(1921年)

《ヨコハマ・ナイト》は、同じタイトルで構図が非常によく似たものが二点確認されています。本作品はその内の一点で、ジョージ・ベロースの所蔵だったとされています。 『日米時報』では、「着想に於て彩筆よくドラマ的に仕込まれて居る。横浜のダウンタウンのあたりの一角を採り軒並ぶ店舗、酒楼、芸者遊郎、査公、学生、西洋人、紺屋職人等、婆婆浮世の活動の描写にてその着想に於ても技巧構図に於ても詩趣あり劇味を帯びて居る。」(「独立美術協会展覧会 日本人画家作品印象記」『日米時報』1921年3月5日)と評価されています。

Ch. 3, Fig. 18

清水登之《アイスクリーム・パビリオン》(ダイクマンの家, House at Dyckman)(1922年) (1922年独立美術家協会展)

清水登之が当時住んでいたマンハッタン北部のインウッド近くを描いた作品です。林立するテーネメントを背景に、アイスクリームショップで買い物をする親子の姿や左側には犬を散歩させる人物、工事現場で働く労働者の姿があり、住宅街の日常が映し出されています。

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Ch. 3. Fig. 19

清水登之《チャプスイ店にて》( 支那飯店,In the Chop Suey)》(1921年) (1922年独立美術家協会展)

夕暮れ時のチャプスイ店、中央の水兵の腰のあたりに手を回し、話しかける女性の姿があります。天井には中国風のランプ、混雑した店内では給仕の男性が忙しそうに料理を運んでいます。人々の会話や食器の音まで聞こえてきそうです。 『日米時報』では、「清水氏の作は毎度ながら情趣の深い浮世の活動が面白く写されて居る。「ダイクマンの家」と「支那飯店」はともにその着想と云ひ、色彩と云ひ、又技巧に於ても充分その風情が表はれて常に特殊の興味を以て見られる。」と評価しています。(無名士画伯 「独立美術展覧会 雅堂、平本、渡辺、清水氏作品短評」『日米時報』1922年4月1日)。

Ch. 3, Fig. 22

清水登之《ニューヨーク、夜のチャイナ・タウン》(China Town)(1922年) (1923年独立美術家協会展)

夜のチャイナ・タウンをバスに乗り物見遊山に訪れた観光客。左側の赤い屋根の料理屋の二階では食事を楽しむ人、道路に寝そべる酔っ払いの姿まで詳細に描かれています。異国情緒が漂う中国人街の雑踏が伝わってきます。 『日米時報』には、「清水登之氏の「支那町」は着想も構図も仲々面白い、背景暗く東洋の建物、人物を配して市内見物車上の西洋人の興感せる奇異の街を描写せるなど情趣劇味の深い活画である。」とあります。 (モーニングサイド蔭士「独立美術展覧会を観て」『日米時報』1923年3月17日)と、題材と趣きのある作風が評価されました。

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Ch. 3, Fig. 26

清水登之《チャイルド洋食店》(Childs)(1924年) (1924年独立美術家協会展)

中央にエプロンを付けた青い制服姿の女性が二人、パンケーキのようなものを焼いています。その奥には厨房で忙しそうに調理する料理人の姿、着飾った客の姿が描かれています。

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Ch. 3, Fig. 23

渡辺寅次郎の《正義の象徴》(1923年頃) (1923年独立美術家協会展)

日本語新聞に美術評を寄稿した渡辺寅次郎ですが、芸術活動もしていました。1923年の第7回独立美術家協会展に、この龍の昇天を描いた屏風を出品します。 『日米時報』では、「龍の昇天の図」の屏風一双は場内特に目に附いた作品である、筆意雄健で、着色もまた高雅である、慥かに現今米国人の要求しておる室内装飾用として歓迎せられるであらう」(モーニングサイド蔭士「独立美術展覧会を観て」『日米時報』1923年3月17日)とあり、東洋風な作品として話題になりました。

独立美術家協会展図録(1923年)

Ch. 3, Fig. 27

石垣栄太郎《鞭うつ》(The Man With a Whip)(1925年) (1925年独立美術家協会展)

《鞭打つ》は、煙を吐き出すビル群を背景に、馬に乗り鞭をふる人物の姿が曲線を基調にした線で表されています。その奥には追い立てられる民衆の姿も映し出されています。 『ニューヨーク・タイムズ』は、「繰り返す曲線と鋭い角度で鞭打つ様子からは、アメリカのリズムが表れている。アメリカのリズムというのは、これまで分析や分類、実例がないが、この日本人画家はたしかに、馬を鞭打つ騎手の抽象的な技法には力強さと優雅さ、鞭の描写には渦巻くような力、長く伸びた馬の首と頭部には火のような活気が表れている」とキュビズムの技法を評価しました。 いっぽう『紐育新報』では、「マルクスの階級闘争説からヒントを得て描いたものだ。」(石垣栄太郎「色とりどりな美術展 邦人出品十六人 溌溂な生気と強い色彩の刺戟と個性を大胆に自由に放射して」『紐育新報』1925年3月11日)と石垣栄太郎自身が画題について指摘しています。

Ch. 3, Fig. 28

臼井文平《夜の屋根》(1925年頃) (1925年独立美術家協会展)

静かな夜の屋上の風景を描いています。直線を基調にした屋上の屋根と煙突、そこに4匹の猫が佇んでいる姿があります。 『日米時報』では「情緒に富んだ題材で、特に屋上の恋猫はローマンチックである。連鎖的色調と忠実なる筆致には何人にもセンセーテーヴなる快感を与へ得る力作である。」(渡辺寅次郎「第9回独立画展を覗いて(二)」『日米時報』1925年3月21日)と評価されました。

Ch. 3, Fig. 29

渡辺寅次郎《ニューヨークのLトレイン》(1925年頃) (1925年独立美術家協会展)

折り重なるように立つニューヨークのビルと、その間を走る高架鉄道を幾何学的な線で表しています。1919年の独立美術家展覧会では屏風を出品し、東洋風の作風が話題となった渡辺寅次郎ですが、ここではキュビズムで描くことを試みたのでしょう。技法を模索する様子もうかがえます。 『日米時報』では、「『紐育市の高架線』は山獄のやうに重壘したビルデイングと燃ゆる様に暑い夏の市中を描くつもりであったが余り成功しなかった事を残念に思ふ」(渡辺寅次郎「第9回独立画展を覗いて」『日米時報』1925年3月21日)と作者、渡辺寅次郎の自評があります。

独立美術家協会展図録(1925年)

Ch. 3, Fig. 30

石垣栄太郎《尼僧と少女》(1925年頃) (1925年 秋のサロンズ・オブ・アメリカ)

ボブカットのヘアースタイルに丈の短いスカートとストッキングをはいた、当時フラッパーと呼ばれた少女の姿があります。彼女の隣を通り過ぎて行く修道女の一人は、すれ違う際に何か言いたげに振り返っています。ここには1920年代の華やかな近代文化を象徴する少女と因襲に囚われた修道女を配置しており、新旧両方の文化が入り混じる当時の世相が表れています。

Ch. 3, Fig. 32

石垣栄太郎《行列聖歌1925 》(1925年頃) (1926年独立美術家協会展)

街を往来する毛皮のコートを着込んだ女性たち、ビラ配りの少女や修道女、その奥には松葉杖をつく人物が見えます。そして右端には新聞売りの少年、ここには様々な人々が行き交う当時のニューヨークの街の様子が描き込まれています。本作品は、後に石垣栄太郎自身により二つに切り裂かれ、現在は《街》というタイトルで、左側半分が和歌山県立近代美術館、右側半分が神奈川県立近代美術館に所蔵されています。 『日米時報』では、「十四丁目の通りに立って静かに眺めた無名の行列は人間生活の偽りの顕はれである。人物排列の苦心は技巧の上にも色彩の上にも優秀な陰影を遺憾無く捉へて居る」 (藤岡昇「独立美術展覧会在紐邦人画家十一名出品」『日米時報』1926年3月13日)と評価されました。

Ch. 3, Fig. 33

石垣栄太郎《街》*左側パネル (1925年)

街を往来する毛皮のコートを着込んだ女性たち、ビラ配りの少女や修道女、その奥には松葉杖をつく人物が見えます。そして右端には新聞売りの少年、ここには様々な人々が行き交う当時のニューヨークの街の様子が描き込まれています。本作品は、後に石垣栄太郎自身により二つに切り裂かれ、現在は《街》というタイトルで、左側半分が和歌山県立近代美術館、右側半分が神奈川県立近代美術館に所蔵されています。 『日米時報』では、「十四丁目の通りに立って静かに眺めた無名の行列は人間生活の偽りの顕はれである。人物排列の苦心は技巧の上にも色彩の上にも優秀な陰影を遺憾無く捉へて居る」 (藤岡昇「独立美術展覧会在紐邦人画家十一名出品」『日米時報』1926年3月13日)と評価されました。

Ch. 3, Fig. 34

石垣栄太郎《街》*右側パネル (1925年) (1926年独立美術家協会展)

街を往来する毛皮のコートを着込んだ女性たち、ビラ配りの少女や修道女、その奥には松葉杖をつく人物が見えます。そして右端には新聞売りの少年、ここには様々な人々が行き交う当時のニューヨークの街の様子が描き込まれています。本作品は、後に石垣栄太郎自身により二つに切り裂かれ、現在は《街》というタイトルで、左側半分が和歌山県立近代美術館、右側半分が神奈川県立近代美術館に所蔵されています。 『日米時報』では、「十四丁目の通りに立って静かに眺めた無名の行列は人間生活の偽りの顕はれである。人物排列の苦心は技巧の上にも色彩の上にも優秀な陰影を遺憾無く捉へて居る」 (藤岡昇「独立美術展覧会在紐邦人画家十一名出品」『日米時報』1926年3月13日)と評価されました。

Ch. 3, Fig. 37

石垣栄太郎《14丁目のミュージックホール》(禿げ頭の列、Bald Headed Row) (1924年)(1926年 サロンズ・オブ・アメリカ)

スポットライトを浴びて舞台の上で踊る踊り子たち、と舞台の下で音楽を奏でる楽士たち、そして客席から舞台に見入る人々、華やかで頽廃的な1920年代のショータイムのひと時を表しています。

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Ch. 3, Fig. 40

石垣栄太郎《禁酒法の狂態》(1927年頃) (1927年独立美術家協会展)

禁酒法は1920年に制定されましたが、その一方では闇営業をする酒場やバーは多く存在し、アルコール依存の弊害もありました。ここには、アルコール依存症の患者に医師が薬を投与する様子を描いています。禁酒法とその背景にある矛盾をテーマにした作品といえるでしょう。

Ch. 3, Fig. 46

石垣栄太郎《失業音楽隊》(フェリーボート・トルバトール) (1928年) (1928年独立美術家協会展)

1920年代後半、映画業界は無声映画から映像と共に音声が流れるトーキーへと進化しました。それに伴い、それまで映画館で映画の上映に合わせて演奏していた楽士たちは仕事を失いました。これは、そのような楽士たちが街に仕事を求めて出て行く様子を表した作品です。産業技術の発展は、それまでの日常的だったものが廃れていくことも意味しているのです。

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Ch. 3, Fig. 31

藤岡昇《アメリカン魂》(1926年頃) (1926年独立美術家協会展)

1926年の独立美術家協会展に出品された《アメリカン魂》は、円卓を囲み、ポーカーに熱中する人々を描いています。左上の眼鏡の紳士はご満悦の様子、いっぽう右下の二人の人物は頭を抱えています。テーブルの両脇からゲームの成り行きを覗き込む人、右端の人物は飲酒をしているようにも見えます。禁酒法時代を背景に、闇営業の酒場の一室を描いた作品ともいえるでしょう。 『日米時報』には「アメリカに渡来してから可なり永い歳月を経て居るけれども私はアメリカ人のスピリットを何にたとへていいか知らなかった。此の作は四六時中銭と肉との事ばかりを夢に見て居る彼等のライフは即ちギャンブリングだ。此の刹那の感情を私はトワールの上に表現して見たいと試みたのが此の作画なのである」 (藤岡昇「独立美術展覧界 在紐邦人画家十一名出品」『日米時報』1926年3月20日)と作者の自評があります。

独立美術家協会展図録(1926年)

Ch. 3, Fig. 38

藤岡昇《社会構成》(1926年頃) (1926年サロンズ・オブ・アメリカ)

路上に座り込みクラップスをする人物と、それを冷やかし顔で見物する人々を描いています。毛皮を着た女性たちは無関心を装い、その場を離れる様子があります。

サロンズ・オブ・アメリカ図録(1926年)

Ch. 3, Fig. 39

藤岡昇《ジャッジメント・オブ・ニューヨーク》(1927年頃) (1927年独立美術家協会展)

ニューヨークの雑沓の中をハイヒールに毛皮のコート、帽子を身に着けて気取って歩くフラッパーの後ろ姿が見えます。周囲の人々も流行の服に身を包み、慌ただしく道路を横断しているようです。 『紐育新報』には「環境と物質とが驚く程異種多様の人間型を鋳造する。官能淫者、恋の遊行者、社会反逆者、国家礼讃者、黄金狂、無魂者、病者等の無現不惻の形容と内容を持つ都会生活者の群れに触れて俺はフト或る閃きを描かうとした」という、藤岡昇の自評があります。(藤岡昇「独立美術展」『紐育新報』1927年3月19日)

独立美術家協会展図録(1927年)

Ch. 3, Fig. 45

藤岡昇《フラターナル・プレジュアー》(1927年頃) (1927年サロンズ・オブ・アメリカ)

闇営業の酒場でブラック・ボトムやチャールストンを躍る男女の姿が映し出されています。禁酒法時代の社会の側面にある頽廃的な部分を題材にした作品です。 『紐育新報』には、「社会の裏面を例によりて風刺的に掴んで居る。然し之は着想の上からのみの成功で画全体からは私には共鳴出来ない点はある。然し画面に活動する男女のブラックバトムやチアルズトンより前者を補ひ得たかも知れむ人物の配置はラインを隠して目的物を結びつけて居る。ヂャズの音楽を聞く様な所に何かの音調を見出し得た。」(渡辺寅次郎「美術展印象」『紐育新報』1927年4月30日)という渡辺寅次郎の批評があります。

サロンズ・オブ・アメリカ図録 (1927年)

Ch. 3, Fig. 35

清水清《14丁目》(1926年頃)

ビルの間に立つのはユニオン・スクエアの銅像でしょうか、背景のビルには「FADA」の文字、地下鉄の入り口からオーバーコートを着た人物、広場の周りを数台の車が走っている様子が描かれています。

独立美術家協会展図録(1926年)

Ch. 3, Fig. 41

清水清《ミュージック・ショップ》(1927年頃) (1927年独立美術家協会展)

1920年代は、経済産業の発展に伴い大量生産、大量消費の時代を迎えました。ラジオの普及で気軽に音楽を聞くことができるようになりましたが、その一方ではラジオには手が届かない人々も多くいました。こうした庶民は50¢でレコードを売る店先から漏れ聞こえるレコードの音楽に耳を傾けていたのでしょう。  「『楽器店』は近来レデオは流行して有名な音楽家の声に何処にいても接することが出来得るやうになったが、尚ほ大都にはこれに恵まれない哀れな多くの貧しい人達のあることを忘れてはならない。是等の群れが宵の散歩に楽器店の前で無銭で肉をそそるやうな音楽に聞きとれている有様を同氏のテクニックで現はしたものだ。人物配列の点からも、色調の上からも申し分のない力作だと思ふ」(藤岡昇「独立美術展」『紐育新報』1927年3月19日)

独立美術家協会展図録(1927年)

Ch. 3, Fig. 44

清水清《ビリヤードとチャプスイとムービース》(1927年頃) (1927年サロンズ・オブ・アメリカ)

映画館の入り口を彩る無数の看板とそこを行き交う人々、清水清の作品には夜の街の風景がしばしば取り上げられています。 『紐育新報』では「かく俗悪な題材を取扱って然も高尚に仕上げるに妙を得て居る。若し評者に一言の批難を許すならば君の作には奥行がない深味を暗示して居ない。あまりにむき出しだから観者に創造の余裕を与へない。もう少し俳味、禅味あって欲しい。」(渡辺寅次郎「美術展印象」『紐育新報』1927年4月30日)と批評しています。

サロンズ・オブ・アメリカ図録 (1927年)

Ch. 3, Fig. 36

臼井文平《屋上のパーティー》(Sunday Evening)(1926年) (1926年独立美術家協会展)

暑いニューヨークの夜、屋上で夕涼みをするカップルの姿を描いています。禁酒法の時代ですが、周囲にウイスキーやワインボトルが転がり、「キャメル」の煙草箱も置いてあります。隣のビルの住民は羨ましそうに見ています。20世紀初頭まで、女性の飲酒や喫煙は考えられない時代でした。しかし1920年代に現れたフラッパーと呼ばれた自由で新しい思想をもった女性の中には、公然と飲酒や喫煙をする者もいました。 『紐育新報』には、「題材も着想も頗るパッショネイトの作だ。ヴァリーと色調の交又、ジャヅ的音調を漂はして。精神集中の焦点に少し弱い嫌がないでもないが斯うした題材にあり勝ちな通弊だ。画全体から見て佳作ではあるまいと思ふ。」(渡辺寅次郎「独立美術展」『紐育新報』1926年3月10日)とあります。

Ch. 3, Fig. 50

臼井文平《夏の午後》(日曜の午後,Sunday Afternoon)(1928年) (1929年 独立美術家協会展)

公園の木陰で新聞紙を敷いてピクニックを楽しむ4人の女性の姿があります。中央に置かれた箱には「Delicious Milk Chocolate」の文字、新聞記事の細部まで描き込まれています。 『紐育新報』では、「4人のフラッパーがセントラルパークの樹蔭で、新聞を敷いて図であるピクニックをしている面白い図である。4人の女を工合よく配置して、その背景にセントラルパークの池や、岩やを密画のように描いている。その辺に散乱する新聞紙のマットにゼフのマン画から、菓子箱の蓋の絵まで細かく描いている。池の上のボートや人物を、はっきりと描いたり、草の一本一本を描くことはこの絵の効果を尠からず害している。かうした細かい所と浪費する力を4人の女の上に用ひたら、氏一代の傑作が出来た筈である。」 (石垣栄太郎「僧俗合宿 独立美術展雑感(上)」『紐育新報』1929年3月13日)と称賛しています。

Ch. 3, Fig. 47

臼井文平《ウクレレ》(1928年頃) (1928年 独立美術家協会展)

それまで画面に数人の人物を描いた臼井文平ですが、ここにはソファーに座ってウクレレを奏でる一人の女性の姿があります。 『日米時報』は、「『ウクレリ』は氏のものとして好い画だ氏の構図はフォーカスを見出す所が困難であった積、『ウクレリ』にはフォーカスがあり従ってまとまりが出来て技巧の円熟が目立って居る。」(石垣栄太郎「第十二回独立美術展覧会慢談」『日米時報』1928年3月17日)と本作品について述べています。 『紐育新報』では、「楽器を持って今その音の中に自身が這入って行く気持ちを見せている、余はこの作品をもって本年度日本人間の秀逸とするこれはたしかに氏の傑作の一つだらう、体のひねり方は誠によく楽器に心を入れて居り、そして体の三大部へ自由な光線をつけ、自由なリズムで描きだしている。とくに頭髪の技巧はよく目だつ、そしてくび足から胸にかけての表現は、実に氏の実写振りが出ていて気持がよい」(吉田石堂「独立展を観る」『紐育新報』1928年3月28日)とあります。

Catalogue of the the Society of Independent Artists, 1928

Ch. 3, Fig. 51

臼井文平《カタログ》(1928年頃)(1928, Salons of America)

ソファーで美術展覧会の図録を眺めながらくつろぐ女性が大きく描かれております。表情は見えませんが、同じ年の独立美術家協会展に出品された《ウクレレ》と同じモデルだと思われます。彼女が眺めるカタログの内容まで描き込まれています。 The Artsでは、「臼井文平氏の『カタログ』を見逃す人はいないでしょう。今にもその一部がソファーから滑り落ちそうな様子で展覧会のカタログを調べる若い女性が描かれています。しかしこの絵にはとても情熱があり、非常に活気あるパターンです。臼井氏は国吉康雄の作品を好む人々に評判の良い陽気な誇張にふけることなく常に笑顔と時々にこっという笑いを与えてくれます。」と述べています。

The Arts, Vol.VIII, No.6, 1928, June

Ch. 3, Fig. 134

臼井文平《シエスタ》(1929年頃)(1930, Exhibition of the Society of Independent Art)

気持ちよさそうに昼寝をする女性の姿があります。昼下がりの一場面を切り取ったような作品です。 『紐育新報』では、 「美しい女が仮寝の図、軟柔な線とデリケートな色彩で器用過ぎるほど器用に描かれている。女が絵の中心から多少離れているので構図上の無理が感ぜられるが佳作である。ただ国吉氏の影響が意識的であると思れるほどなのはこの絵のために惜しい。」(石垣栄太郎「フロ派とブル派が美術の対立(下)」『紐育新報』1930年3月15日)と評価されました。

The Arts, Vol. XVI, No.7,1930, March

Ch. 3, Fig. 42

都築隆《ビューティー・ショップ》(1927年頃) (1927年独立美術家協会展)

ワンピースに帽子をかぶった女性たちが、当時流行のボブカットのヘアースタイルを求めて、美容院に通う姿を描いています。カーテンで仕切られた個室ではシャワーで髪を洗う様子やヘアーカットする様子まで詳細に描き出しています。

独立美術家協会展図録(1927年)

Ch. 3, Fig. 43

渡辺寅次郎《暴徒と迫害》(1927年頃)(1927年 独立美術家協会展)

街中を走る自動車と道路を行き交う大勢の人、中央の停車している自動車の脇には人だかりが出来ています。渡辺寅次郎の本作品は、東洋風の題材の《正義の象徴》やキュビズムの技法を取り入れた《ニューヨークのLトレイン》とは異なり、社会派リアリズムを試みたものといえるでしょう。 『紐育新報』には「最近の力作であると信ずる。新らしく試みたこの方法が同氏の真の心の叫びであって欲しい。慾を云へば自動車の配列を何とか考へたら色彩の点から見ても、いい作品だ」(藤岡昇「独立美術展」『紐育新報』1927年3月19日)と藤岡昇の批評があります。

独立美術家協会展図録(1927年)

Ch. 3, Fig. 49

保忠蔵《サカンダカ公園ミッドウェー》(1929年頃) (1929年独立美術家協会展)

夏の時期に限定で開かれる屋外遊戯施設を背景にしています。射的やヨーヨー釣り、ロバに乗って楽しむ子供たち、パナマ帽の紳士や水着姿の女性の姿、賑やかな夏の風物詩を題材にしています。   『紐育新報』では、「山中にある日本人の夏場業の生活を軽妙な筆で描いたものである。玉コロガシ、ポーカゲーム、スツリングゲームに就働する邦人と、ゲームに夢中になっている紅毛人の男女、それを囲繞する群集の配置、群集の中で立味している水浴衣のフラッパー達の肉体的な表現、かうしたパークによく来る都会人と田舎者との服装上の相違や性格上の差別が、氏独特の色彩と栄格的な描写法で遺憾なく描かれている」。 (石垣栄太郎「僧俗合宿 独立美術展雑感(上)」『紐育新報』1929年3月13日)と評価しています。

独立美術家協会展図録(1929年)

Ch. 3, Fig. 135

芸術家のパーティーの写真(1929年4月6日)

1929年4月6日に開かれた芸術家のパーティーで撮影された写真です。前から1列目右から3人目、清水清、1列目4人目、石垣栄太郎、前から2列目右端、石垣綾子、前から3列目右から2人目、臼井文平、前から3列目、右から3人目、角南壮一、3列目、左から2人目、国吉康雄 が写っています。芸術家仲間との楽しいパーティーのひと時がうかがえます。

個人蔵

Ch. 3, Fig. 136

芸術家のパーティーの写真(1920年代頃)

年代は不明ですが、芸術家のパーティーで撮影された写真です。前から2列目左端、石垣栄太郎、前から2列目左から5人目、国吉康雄が写っています。これらの写真から、1920年代にアート・スチューデント・リーグで学んだ日本人芸術家たちは、アメリカで活動する芸術家仲間と親しく交流していたことがわかります。

個人蔵

Ch. 4, Fig. 52

紐育新報社主催邦人美術展覧会の集合写真(1927年)

1927年の日本人の展覧会で撮影された芸術家の集合写真です。中央に国吉康雄、前列の左から2人目に濱地清松、後列左から3番目に石垣栄太郎が写っています。左端の作品は臼井文平の《家具工場》、その隣に国吉康雄の《二人の女》があるのがわかります。

Ch. 4, Fig. 53

藤岡昇《チャールストン》(1927年頃)

「チャールストン」は、1920年代に流行した、ジャズ音楽に合わせて踊るダンスを指します。タイトルから推察すると、本作品は、酒場で踊る男女の姿をユーモラスに描いた《フラターナル・プレジュアー》(1926年サロンズ・オブ・アメリカに出品)と同一のものだと考えられます。ここには禁酒法の時代に闇営業の酒場で夜ごと開かれたパーティーの狂乱振りとジャズに合わせて踊る人々の様子が写し出されています。

サロンズ・オブ・アメリカ図録 (1927年)

Ch. 4, Fig. 54

藤岡昇《アメリカン魂》(1926年頃)

集合写真〔図52〕の右端に写っているのが、《アメリカン魂》です。本作品は1926年の独立美術家協会展に展示されました。 藤岡昇の作品について『紐育新報』には、「巷の人間を拉し来って大胆に描いて見せる此作家は確に場内での一異彩だ。生気溌溂としている。『アメリカ魂』は既に定評あり、最も巧妙な黒色の駆使を『サブの午後』に、軽妙な人間描写を『チャールストン』に見る」(清水)「『地下鉄の午後』、『チャールストン』は偉く進歩したものだネー近来はーと云ふのは昨春の独立展で騒がれた米国魂などから見ると作品に権威がついて来た。そうして色彩も内容もリッチになって来た。蔭鬱な地下の空気がよく出ているぞ。全体若い画家には其系統があまり赤裸々過ぎるものだが、彼にそれが無いから個性が強いと云へるだらう」(渡辺)(「美術展合評」『紐育新報』1927年2月23日)という評価があります。

独立美術家協会展図録(1926年)

Ch. 4, Fig. 55

平本正次《蝶々夫人》(1926年頃)

平本正次の作品は、タイトルから推察すると1925年と1928年の独立美術家協会展に出品した《Musician》と《Madam butterfly》と同一作品だと考えられます。

独立美術家協会展図録(1926年)

Ch. 4, Fig. 56

平本正次《楽人》(1925年頃)

『紐育新報』には、「楽人の方が踊女よりいい。単純化した線が東洋的にコンヴェンショナライズしている処に特徴がある。(石垣)」 「平本君の三点は俺等に記憶ある作品だが、何時見ても気持が良い。第一アブストラクトの線が気に入ったよ君―之がなかなかむづかしのだからね(渡辺)」(「美術展合評」『紐育新報』1927年2月26日)とあり、日本人芸術家の間でも定評があったことがわかります。

独立美術家協会展図録(1925年)

Ch. 4, Fig. 57

犬飼恭平《自画像》(反映 Reflection)(1918年) 

肖像画家、犬飼恭平が描いた自画像です。本作品は1921年のペンシルバニア・アカデミーの展覧会にも出品した彼の代表作です。   『紐育新報』にも、「アカデミシアンの旗本であるから技巧一点張りで既に頂点に達しつつあるから此の後如何に展開するかは注目に値す」(石垣) 「官学派の画家として第一線に立っていると思っているらしい。血の気のないあの顔を見て呉れ、栄養不良といふ訳でもあるまい」(藤岡) 「犬飼君の反映はやはり氏の代表的作品なんだらう。色も技巧もお手ぎわのものだ。(渡辺)。」 (「美術展合評」『紐育新報』1927年2月26日) という批評があります。

東京国立近代美術館

Ch. 4, Fig. 58

石垣栄太郎《尼僧と少女》(1925年頃)

《尼僧と少女》は1925年のサロンズ・オブ・アメリカにも出品した、フラッパーと尼僧を描いた作品です。 これらの作品を芸術家仲間は称賛しています。「今度の展覧会で本当に男をあげたのは彼だ。来る人たちが何れも此の『尼僧と少女』の前に立ち止って暫く無言で眺め入る清い聖者としての尼僧の姿と享楽を追ひ求めて表面的に生きる現代のフラッパーの対象がよく現はれている。デッサンに無理がなく色の調子のクリアーな点は実にいいネ。『交通難題』に至っては最近に於ける快心の力作であると思ふ。少しの隙がない。構図はバスのグリーンの色と人物排列の整っていることなどかなり苦心している。俺は彼の出世作だと思ふネ。」(藤岡) 「石垣君のものの内、俺に何れを買ふかと反問したら、無論『交通難題』を第一に撰ぶさ筆致も色調も図も引き締って来た。一見して氏の作だなアと云ふ特徴が伸びて来た。」(渡辺) 「此作家も亦群衆の蠢めきを得意の材料とする。尠く共私には可なり日本人的な絵と見へる。恐らく巧妙な曲線と円滑な筆触のためであらう。『交通難題』はコンプリートはしているが、私自身は『尼僧と少女』を好む。明快な構図と理智的な色調とが『大きさ』」を示しているから。特に型像的な二人の尼僧の姿がいい。」(清水)(「美術展合評」『紐育新報』1927年2月26日)

Ch. 4, Fig. 60

村田紅雪《春宵》(1926年頃) 

村田紅雪は、出品者の中で唯一の女流画家でした。彼女については不明な点が多くありますが、1926年のサロンズ・オブ・アメリカに《Rouge》を出品していることから、この頃、一時的にニューヨークに滞在した画家だと考えられます。集合写真の上部に写る大きな作品が《春宵》です。 『紐育新報』には、「春宵は空の色と花の感じがよく、人物に悠長な感じが出ている。西洋画の感化を受けた日本である。」(石垣) 「春宵は帝展に入選し評判がよかった画だといふことだ。春宵の夢のやうな気分がよく現はれている。」(藤岡)(「美術展合評」『紐育新報』1927年3月5日) とあります。

『紐育新報』1927年1月1日紙面

Ch. 4, Fig. 61

清水清《第14街》(1926年頃)

本作品は、1926年の独立美術家協会展にも出品されました。この展覧会は、既に好評を博した本作品を改めて鑑賞する機会となったのでしょう。 『紐育新報』では、「第14街は夜の気分がよく現はれている。特に明るい電気の光りと夜との対象がよくとれている。清水君のうちでいいものだ」(石垣) 「第14街は昨年の独立展で都下の新聞雑誌が一様に激賞した画なのだ。夜の14丁目は色々な意味で俺の心をそそるどうだ構図に少しの無理がなく色彩の上にも独得の気持を表現している。[…]同氏の代表的作品であり、都会生活者としての同氏の掴んだあの気持は他人の追随を許さない。健実な筆致と構図は色の運び方と共に一家をなしている」(藤岡)(「美術展合評」『紐育新報』1927年3月5日) と評価しています。

独立美術家協会展図録(1926年)

Ch. 4, Fig. 62

清水登之《ヨコハマ・ナイト》(1921年) 

清水登之は1924年に渡仏しており、この当時ニューヨークにはいませんでした。この作品はジョージ・ベロースの好意で同展覧会に出品されました。 『紐育新報』では、「横浜の夜は君の傑作であって仲間の中で一番よい部分に属する」(石垣) 「濁り切った灰色の日本の文化、都市の光景が横浜の夜によく現はされている。狭くて汚ない市街、不規則な家屋の間に有りと有ゆる人物を羅致した点は色々な意味から同氏の世態人情の機微が遺憾なく現はれている。」(藤岡)(「美術展合評」『紐育新報』1927年3月5日)

Ch. 4, Fig. 63

角南壮一《吾が母》(1926年頃) 

写真家でもあった角南壮一は、アート・スチューデント・リーグでジョン・スローンに師事し、1920年代の独立美術家協会展やサロンズ・オブ・アメリカに油彩画を発表しています。この展覧会には故郷岡山県の母親を描いた本作品と《ヌード》、《静物》の3点を出品しました。 『紐育新報』では、「『我が母』これは遠い微かな記憶を辿って描いたものだ細い筆致を通して描き現はした懐かしい母の姿に温和な真剣味のある芸術家としての気分が浮んでいる。裸体画と静物は確実な同氏のデッサンを物語っている。三点の作品を通しての同氏は一つ一つコンディションを築きつつ進んでいる人である。特に我が母は好評を博している。」(藤岡) 「母の像は咏嘆的な味のものだが、裸像及び静物には質実なタッチを以て築き上げた営みが窺はれる。殊に裸像は女を動物的に取扱ったところが面白いし、同君独得の容量感が手際よく表現されている。」(清水)(「美術展合評」『紐育新報』1927年3月5日)と評価されています。

『紐育新報』1927年1月1日紙面

Ch. 4, Fig. 64

都筑隆《風景》(1926年頃) 

アート・スチューデント・リーグで学び、静物画を得意とした都筑隆の作品です。花瓶に生けられた二輪のカラーの花は、線と空間と奥行きを重視した、日本の生け花のような構図です。本作品は、西洋画に日本文化を意識して表現したのかもしれません。 都筑隆は創作について、「洋画の道を歩んでいる私は、個性といふことを思ふ時、日本人であることを強く意識する。私の心も血も、東洋の哲学の影響を受けて居り、宗教的人生観、文学的感化から白紙のやうに解放され切られないから。私は日本人としての自分の個性の特長を、最も濃厚に表現して行きたい。」(都筑隆「芸術の個性」『紐育新報』1927年1月1日)と述べています。

『紐育新報』1927年1月1日紙面

Ch. 4, Fig. 65

臼井文平《家具工場》(1925年) 

集合写真(Fig. 52) の左端に写っているのが《家具工場》です。本作品は1925年のサロンズ・オブ・アメリカに《Machine Shop》というタイトルで出品しました。臼井文平は家具ディーラーをしていた兄とともに世界各地を回り、ニューヨークに寄港した際、当地を気に入り住み着いたといわれています。大勢の家具職人が各工程に分かれて制作する様子が巧みに描かれています。 臼井文平の作品について『紐育新報』には、「『家具工場』の画は君の傑作だ併し焦点がないために中の人物が離れ離れになっているが、これを纏めさへすれば欠点のない画だ」(石垣)

Ch. 4, Fig. 66

臼井文平《小娘》(1926年頃)

室内の椅子に座るショートヘアの女性を描いた作品です。 『紐育新報』には「場内で最も特色あるものの一人だ。この人のキャンヴァスはそのどれもが君の個性で充満されていて見る人に異常な圧迫力を与へる。『大工部屋』は君の力作でもあり出世作でもあるが、私は「小娘の肖像」を好むよどみなく描れていて愉快な画だ。」(清水)(「美術展合評」『紐育新報』1927年3月9日)とあります。

『紐育新報』1927年1月1日紙面

Ch. 4, Fig. 67

川村吾蔵《フレデリック・マクモニス》(1926年頃)

川村吾蔵は、ニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザイン、フランスのエコール・デ・ボザールで彫刻を学んだ彫刻家です。エンラージング・ミシンという彫刻の立体拡張機を考案し、彫刻家フレデリック・マクモニスの助手として多くの彫刻を制作しました。 川村吾蔵の作品は、ニューヨーク・パブリック・ライブラリーの正面入り口の《哲学》〔図137〕と《美》〔図138〕、市庁舎前の広場に設置されていた《市民道徳》〔図139〕(現在はグリーンウッド墓地に設置)、ワシントンDCの最高裁判所入り口の《Authority of Law》〔図141〕、《Contemplation of Justice》〔図142〕〔図140〕などがあります。

『紐育新報』1927年1月1日紙面

Ch. 4, Fig. 137

川村吾蔵《哲学》(1920年頃)

ニューヨーク・パブリック・ライブラリーの正面入り口に設置されている彫刻。

撮影:佐藤麻衣(ゲストキュレーター)

Ch. 4, Fig. 138

川村吾蔵《美》(1920年頃)

ニューヨーク・パブリック・ライブラリーの正面入り口に設置されている彫刻。

撮影:佐藤麻衣(ゲストキュレーター)

Ch. 4, Fig. 139

川村吾蔵《市民道徳》(1922年頃)

市庁舎前の広場に設置されていた彫刻。現在はグリーンウッド墓地に設置されている。

撮影:佐藤麻衣(ゲストキュレーター)

Ch. 4, Fig. 140

川村吾蔵《Authority of Law》,《Contemplation of Justice》(1935年頃)

ワシントンDCの最高裁判所入り口に設置されている彫刻。

撮影:佐藤麻衣(ゲストキュレーター)

Ch. 4, Fig. 141

川村吾蔵《Authority of Law》(1935年頃)

ワシントンDCの最高裁判所入り口の左側に設置されている彫刻。

撮影:佐藤麻衣(ゲストキュレーター)

Ch. 4, Fig. 142

川村吾蔵《Contemplation of Justice》(1935年頃)

ワシントンDCの最高裁判所入り口の右側に設置されている彫刻。

撮影:佐藤麻衣(ゲストキュレーター)

Ch. 4, Fig. 68

渡辺寅次郎《自画像》(1926年頃) 

パレットを片手にポーズをとる制作中の自身の姿が描かれています。渡辺寅次郎は、独立美術家協会展で東洋風の屏風やキュビスム、アッシュ・カン・スクールといった様々な技法の作品を発表してきました。また作品の創作だけではなく、日本語新聞に鋭い美術批評を寄稿する批評家でもありました。 『紐育新報』では、『自画像』は顔の色彩が強いために冷めたい周囲の感じと熱帯的な顔とがそぐはない。顔と体との間に距離の隔りを感ずる。」(石垣) 「『自画像』はウッドスタックの山中でタイムと労力を惜しまずブラッシュを運んで描き上げたので実体よりも色男に浮き出ている。」(藤岡)(「美術展合評」『紐育新報』1927年3月9日) と述べています。

『紐育新報』1927年1月1日紙面

Ch. 4, Fig. 69

吉田石堂《イースト河》(1927年頃) 

イースト・リバーに架かるブルックリン・ブリッジを、墨で水墨画のように描いた作品です。本作品は、当時のニューヨーク総領事、齋藤博の依頼で1925年に制作されました。

『紐育新報』1927年12月31日紙面

Ch. 4, Fig. 70

石垣栄太郎《失業者》(1932年頃)

新聞紙を握りしめ、公園のベンチでうなだれる人物の姿があります。世界恐慌のニューヨークでは、街中にこのような失業者があふれていました。    『紐育新報』では「今頃新聞紙を掴んでロハ台に居眠る程の者は大抵失業者にきまっている。晦渋すぎる所もあらうが、この方が作者の意図する所に近いだらう」(清水清「邦人美術展(上)」『紐育新報』1935,2,16) 「石垣栄太郎氏の画はベンガラ色をよく出す男だ、特異性はあるが、一般には毛嫌される画だ、しかし大家の気風はある、壁画を描せればよいのに」(「素人芸術家の作品も交じって邦人美術展覧会(下)その特異性のあるのが面白い」『日米時報』1935年2月23日)とあります。

Ch. 4, Fig. 71

永井トーマス《室内》(1935年頃)

窓辺に置かれた鉢植えの球根からは植物が芽吹き、窓の外にはのどかな郊外の風景が広がっています。

Parunassus,1935,October

Ch. 4, Fig. 72

国吉康雄《テーブルの上の果物》(1932年) 

テーブルの上に置かれた二房の葡萄と洋梨を描いた静物画です。本作品は1934年のペンシルバニア・アカデミーでテンプル・ゴールド・メダルを受賞しました。

Ch. 4, Fig. 74

角南壮一《ヘイ・スタック》(1935年頃)

ます。 『紐育新報』では、「へー・スタック」には天地の悠久性を暗示するものがありますが、色調が単調に失したのは惜しい。」(清水清「邦人美術展(上)」『紐育新報』1935年2月20日)と批評があります。

個人蔵

Ch. 4, Fig. 75

臼井文平《ウッドストックの国吉家》(室内)(1934年) 

ニューヨークの北西、キャッスキル山地の麓の芸術家村ウッドストックには、多くの芸術家が集まり創作活動をしました。ウッドストックの国吉康雄の家を描いたこの作品は、1934年のワナメーカーのレジオナル展で賞を受賞しました。

Bumpei Usui, Paintings 1925-1949(Exhibition cataloge), Salander Galleries,1979

Ch. 4, Fig. 76

臼井文平《国吉の居間から見た風景》(風景)(1932年) 

ウッドストックの国吉康雄の家の窓から庭を見渡した構図です。壁には国吉康雄の作品と思われる人物画が掛けられています。これは1934年のシラキュース美術館の展覧会に出品しました。 この作品について『紐育新報』は、「『室内』はテーブルや壁のあたりの取扱ひ方などなかなか面白いが、グラス窓越しの短距離感に少々不満を感じさせる。『風景』は達筆すぎると思ふ処」と評価しました。(清水清「邦人美術展(上)」『紐育新報』1935年2月20日) また『日米時報』では「『風景』『室内』共に国吉の画に稍あやかっつているが面白い。寧ろ国吉を凌駕しはしないか」(「素人芸術家の作品も交じって邦人美術展覧会(下)その特異性のあるのが面白い」『日米時報』1935年2月23日)とあります。

フジテレビギャラリー『臼井文平展』図録(1983年)

Ch. 4, Fig. 77

中川菊太《壊れたロマンス》(1931年頃)

楽譜の上に置かれたバイオリン。弦はかきむしられ、無残に折られたバイオリンの先端とそばに置かれたバラの花から、二人の間に何が起こったかを創造させます。 『紐育新報』の美術評から、この展覧会に出品されたのは1931年のサロンズ・オブ・アメリカに出品された静物画と同一作品だと考えられます。

サロンズ・オブ・アメリカ図録(1931年)

Ch. 5, Fig. 78

鈴木盛《予防医学》(1937年頃)

鈴木盛はウィラード・パーカー病院に、パスツール(Louis Pasteur)、ジェンナー(Edward Jenner)、野口英世を配置した伝染病との闘いの歴史をテーマにした壁画を制作しました。

Ch. 5, Fig. 79

石垣栄太郎《ハーレム裁判所の壁画(「奴隷解放」の部分)》(1937-1938年頃)

石垣栄太郎は、1935年からニューヨークの121丁目にあったハーレム裁判所の壁画制作の主任として従事しました。

Ch. 5, Fig. 80

石垣栄太郎 壁画製作時の写真(1940年頃)

ここに写っているのは、「アメリカの独立」「奴隷解放」の二点です。このうちアメリカの独立は、初代アメリカ大統領、ジョージ・ワシントンの肖像とともに、武装した市民が太鼓を打ち、銃を構えている様子が描かれています。