ダイヤモンドにかけた魂と犠牲:

日本野球の150年

野球殿堂博物館

我らが国技である野球以上に異なる人種をひとつにしてくれる優れた媒介物は存在しない。野球こそ真の人種の坩堝だ。


—フレッド・リーブ、アメリカのスポーツ記者・野球史家(1923年)

展示会について

2022年は、日本における国民的娯楽とも言える、野球の150周年祭である。ここ数十年、米国ではイチロー、松井、ダルビッシュ、田中、大谷、吉田といった日本人選手がメジャーリーグ(MLB)の人気選手となっている。

日本人がその才能を発揮し、野球をはじめとしたスポーツで成功することは、アメリカン・ドリームの象徴と思われがちだが、その繁栄の裏には、多くの失敗や人種差別といった問題も多くあった。

このような困難に直面しながらも、MLBにおける初期の日系人(日本国外に居住するあらゆる世代の日本人)と日本人野球のパイオニアたちは、数え切れないほどの過酷な経験、大敗、そして革新的な勝利を通して、人種的差別や先入観を克服してきた。野球はまた、日系ニューヨーカーを含む日系人にとってのアイデンティティの在り方を反映するだけでなく、日米文化的同化と日本の文化に対する誇りを深める役割も果たしてきた。

2009年8月21日、ニューヨーク・ヤンキース対ボストン・レッドソックス戦でホームランを放ち、この年、ワールドシリーズのMVPに選ばれた松井秀喜。松井は、メジャーリーグ(MLB)において、日本人のパワーヒッターは、アメリカ人やラテンアメリカ人のスラッガーに太刀打ちできないという人種的固定観念を覆し、ヤンキースでの7年間を含む、MLBでの9年間、先発左翼手兼指名打者として活躍した。

MLB.comの厚意により

日本における起源と発達

1872-1896

1872年、アメリカ人教育者ホレス・ウィルソンが「ベースボール」を日本に紹介し、その6年後、平岡博が日本初の野球チーム、新橋アスレチッククラブを結成した。1896年には、日本の野球チームがアメリカの野球チームを破ったと記録されている。この年、東京の一高野球部は、アメリカ海軍巡洋艦USSデトロイトのアメリカ人メンバーで結成された、横浜カントリー・アスレチック・クラブチームと対戦し、4試合中3試合に勝利した。

『初等読本』

これは1873年に発行された日本の学校教科書『初等読本』の抜粋で、日本における初期の野球が描かれている。イラストのタイトルは「ボール遊び」。

野球殿堂博物館

1878年、新橋運動倶楽部での平岡熙(中列中央)。平岡熙(1856-1934)は日本野球の父と言われでいる。1871年、平岡は鉄道技術を学ぶためにボストンとフィラデルフィアに渡った。ボストンでは、1876年に、ボストンレッドストッキングスの投手で、最初の「メジャーリーグ」であるナショナルリーグ(NL)を共同創設したアルバート・G・スポルディング(1849-1915)と知り合った。平岡は、再三ニューヨークを訪れ、街頭で行われていた都市型野球(スティックボール)を見学した。5年間の海外生活の後、平岡は熱狂的な野球ファンとなって、東海岸滞在中に収集した野球ガイドブックや用具を日本に持ち帰った。1878年には、日本初の野球チームである新橋アスレチッククラブを結成した。

1896年に行われた、一高チームとUSSデトロイトチームとの野球試合に関する新聞記事。東京の一高野球部は、3試合連続で、アメリカ人選手を中心としたチームに勝利した。第1試合では、一高が横浜カントリー&アスレチック・クラブ(YCAC)に29対4で勝ち星をあげ、再戦を求める声が上がった。第2試合では、アメリカ海軍の巡洋艦デトロイトの水兵がYCACチームに加わったが、またしても28対9でアメリカが敗れた。2度目の敗北の噂は瞬く間に広まり、USSデトロイトの水兵たちは3度目の一高生との対戦に挑んだ。しかし、またしても22対6でアメリカが大敗した。1896年7月4日の最終試合では、14対12という接戦の末、ついにアメリカが勝利した。1896年6月13日の『日本週報』の記事に見られるように、国内外のメディアがこの試合を取り上げ、一高チームとその監督は全国的な有名人となり、日本での野球人気は急上昇した。

ハワイの日系二世野球リーグ(1908年)とバーンストーミング・チームがニューヨークを訪問(1913年)

1872-1896

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、サトウキビ農園で働くためにハワイに移住した日本人労働者は、野球に対する親しみをとおして、労働者階級のエスニック・コミュニティとの交流を深めていった。

1) Honolulu Star-Bulletinの厚意により

2) 米国議会図書館の厚意により

ハワイアン・トラベラーズ

ハワイアン・トラベラーズは、ハワイ出身の多民族で構成された遠征試合チームで、1912年から1916年にかけてアメリカ本土を回り、132試合に及ぶ、エキシビション・ゲームに出場した。このチームは "チャイニーズ・トラベラーズ "としても知られていた。1913年、トラベラーズは、黒人リーグのニューヨーク・リンカーン・ジャイアンツや、セトン・ホール・パイレーツなどの大学チームと試合をした。チームのメンバーには、ジェームス・チニート(「ジミー」)・モリヤマ(1893-1950)、その弟のクレメント・ツナオ(「クレム」)・モリヤマ(1894-1970)、アンディ・マサヨシ・ヤマシロ(1896-1941)の3人の日系二世がいた。ヤマシロはチームの別称に合わせるため、"アンディ・イム "というペンネームを採用した。トラベラーズは、アジア系アメリカ人やハワイ先住民が、白人や黒人のアメリカ人相手に、台頭に野球の試合ができることをアメリカの観客に示した。この写真は1916年10月24日に撮影された。

1916年、ハワイアン・トラベラーズが全国ツアーを終え、アンディ・ヤマシロはフィラデルフィアのテンプル大学の予備校に入学した。ヤマシロは同校のフットボール・チームで右翼手としても活躍した。その後、ヤマシロは、ペンシルベニア州ゲティスバーグのマイナーリーグに入団し、数少ないアジア系アメリカ人のプロ野球選手の一人である。写真は1916年11月22日撮影。

日系二世プレイヤーの黄金時代

1920-1941

20世紀初頭に野球人気は日系アメリカ人コミュニティに広がった。1910年代頭には二世リーグが国中で結成されて数を増していった。この日系アメリカ人二世の野球への情熱から、多くの野球史家が1920年代と30年代を「二世野球の黄金時代」と呼ぶ。二世チームの大部分は太平洋岸にまとまっていたが、ニッポン・アスレチック・クラブなどの一部のチームは早くも1916年にはニューヨーク市に存在していた。だが、ニューヨークで日系アメリカ人の野球リーグが生まれたのはようやく第二次大戦後になってからだった。この間、中国系アメリカ人のバック・ライがMLBクラブの唯一のアジア人選手であった。

1934年 ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、その他のアメリカン・リーグのオールスターが日本ツアーを行い、日本のチームとエキシビション・ゲームを行った。アメリカのオールスターチームは1931年にも日本ツアーを行っていたが、1934年のツアーは、当時も今日も最も偉大な野球選手とみなされている、ベーブ・ルースが参加したため、記念すべき試合となった。このツアーは、日本における野球ファンの増加につながった。

野球殿堂博物館. ID: B-277-51-21.

画像は、1934年8月15日、ニューヨークのヤンキー・スタジアムを訪問中の賀陽宮恒憲王と敏子妃、ベーブ・ルースと共に。

アメリカン・リーグのオールスター日本遠征

1934年11月3日、アメリカン・リーグのオールスター日本遠征の初戦を前に、東京の明治神宮球場で集合写真を撮るオール・アメリカン・チームとオール・ニッポン・チーム。オール・アメリカン・チームは初戦を17対1で制し、他の15試合でも勝利を収めた。

おそらくこの遠征で最も記憶に残る試合は、11月20日に静岡の草薙球場で行われたものだろう。この試合では、17歳の天才高校生、沢村栄治がオール・ニッポン・チームの投手として登板した。沢村は強打のアメリカチームを5安打1失点に抑え、完投した。ゲーリンガー、ルース、ゲーリッグ、フォックスを連続三振に仕留めた。試合は1-0で全日本が敗れたが、全米チームの監督であったコニー・マックは、沢村の活躍に感激し、彼が監督兼オーナーであったフィラデルフィア・アスレチックスと契約しようとしたが、沢村は丁重に断った。

邦字新聞デジタル・コレクション

バック・ライ

1928年、ニューヨーク・ジャイアンツで練習するウィリアム・ティン・"バック"・ライ(1894-1976)。中国系アメリカ人であるバック・ライは、ジョン・マグロー監督の推薦で、1928年にニューヨーク・ジャイアンツと契約し、MLB初のアジア系アメリカ人選手となった。長年マイナーリーグとセミプロの三塁手だったライは、契約当時33歳だった。ライがハワイ生まれでアメリカ国籍を持っていたにもかかわらず、『リパブリカン・ジャーナル』紙は、ジャイアンツの最初の試合の前に、ライがアジア系であることに漬け込み「週間打率を漢字に翻訳しなければならない哀れな野球統計学者 」と報じた。ライがメジャーリーグでプレーした期間は非常に短かく、ジャイアンツはわずか2試合で彼の契約をジャージー・シティのマイナー・リーグ・チームに売却した。ライはどちらの試合にも出場しなかった。

米国議会図書館の厚意により

オール・ハワイアン・ナイン

オール・ハワイアン・ナインの写真。写真左から3番目がバック・ライ。ライは1928年、インターナショナル・リーグのジャージー・シティ・スキーターズで4試合に出場。その後、ジャイアンツと契約する前に所属していたセミプロチーム、ブルックリン・ブッシュウィックスに復帰した。1935年、バックはハワイに戻り、"オール・ハワイアン・ナイン "と名付けられたバーンストーミング・チームを結成した。選手のほとんどは中国系か日系の血を引いていた。オール・ハワイアン・ナインは全米各地でエキシビション・ゲームを行った。

ニューヨークでは、ブルックリン・ブッシュウィックス、ペンシルベニア・レッドキャップス、セントラルパーク・パイングローバーズなどが対戦相手だった。グループは第二次世界大戦が始まるまでツアーを行った。戦後、バックはブルックリンに移り住み、ブルックリン・ドジャースのスカウト兼指導者を務めた。その後、ロングアイランド大学(LIU)ブルックリン・ブラックバーズの野球とバスケットボールのコーチを務め、また、LIUブルックリン校のアスレチック・ディレクターと監督も務めた。

Museum of Chinese in America (MOCA)の厚意により

試練の時

1941-1946

1941年12月、日本の真珠湾の爆撃とアメリカの第二次世界大戦への参戦は、日系人の生活の基盤を揺るがした。日系人は米国内で人種差別の的となり、アメリカの政治家やメディア指導者たちは、日系人によるスパイ活動や破壊工作について根拠のない懸念を示した。真珠湾攻撃の2ヵ月後、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は大統領令9066号を発し、日本人の血を引くすべての人々(その3分の2はアメリカ市民であった)を、太平洋沿岸の自宅から、競馬場や見本市会場を改造した集合センター、そして砂漠や沼地にある「戦争移転センター」という婉曲な名前の強制収容所に移送することを許可した。合計12万人以上の日系アメリカ人が、わずか10箇所の収容所に収容された。収容所の移転は突然で、貴重品や家屋、事業を売却するのに与えられた期間はわずか数ヶ月、場所によっては48時間しか与えられなかった。収容された日系人達は、有刺鉄線と武装した監視塔に囲まれた収容所で、不公平な生活を強いられ、米国人で在るにもかかわらず、自国である米国から迫害されるという理不尽で過酷なものだった。

1940年代のローワー戦争移住センターのバラックと周辺地域。

「野球は、収容所内での日系社会の絆を深め、社会的に有意義な役割を果たした」

ブランチ・リッキー(中央)、LAドジャースのオーナーであるウォルター・オマリー(左)、元シカゴカブス投手ボブ・カーペンター(右)。1951年12月10日。

戦争中、強制収容された日系人にとって、野球は慰めの源であった。日系人は戦前から野球に親し身が深く、収容所での生活苦を多少なりとも克服する手段となった。アーカンソー州のローワー戦争移転センターで発行されていた新聞『ローワー・アウトポスト』のスポーツライター、フレッド・オオシマは、「野球は、収容所内での日系社会の絆を深め、社会的に有意義な役割を果たした」と回想している。

ニューヨークやその周辺地域に居住していたほとんどの日系人は強制連行や逮捕を免れたが、中には、エリス島で強制収容された者もいた。第二次世界大戦勃発後、多くの一世と二世が職を失い、ある者は政府の監視下に置かれ、令状なしの家宅捜索を受けたり、市民権を持たない一世は全員、「敵性外国人」として登録することを強制され、特別な身分証明書を携帯しなければならなかった。1944年、連邦政府がマンハッタンとブルックリンの収容所から日系人の再定住を計画案が持ち上がると、ニューヨーク市のフィオレロ・H・ラガーディア市長は、ニューヨークの軍事施設、工場、輸送施設の近くに日系人が再定住することの「危険性」について懸念を表明した。

トマス・マーティンの厚意により

1943年から1945年にかけて、戦争移転局は、4,000人以上の高校卒業生に、強制収容所を出て米国中西部または東部の高等教育機関に通う許可を与えた。その中にはコネチカット大学も含まれていた。写真は1945年のコネチカット大学野球部。選手の2人、比屋根(1列目左端)と清川(1列目右端)は、許可を得た学生の一人である。

戦後の先駆者

1941-1946

1946年までに、ニューヨークでは、ハワイからの退役軍人や学生も含めた強制収容所からの再定住者が、戦時中の日系コミュニティーの2倍以上の規模になった。これらの新参者の多くは、20代から30代の二世だった。野球好きが集まり、二世だけの野球やソフトボールのリーグが結成された。

1) Densho
2) トマス・マーティンの厚意により

ウィークエンダー・リーグ

1946年5月、カリフォルニア州ツールレイクにあった最後の戦争移転局が閉鎖された数ヵ月後、ニューヨークで日本人だけのソフトボールリーグが結成された。1946年5月30日発行のニューヨークの日系人向け新聞『二世ウィークエンダー』誌に、日系ソフトボールチーム「ウィークエンダー・リーグ」の発足が発表される。「ウィークエンダー・リーグ」という名前は、同新聞の名前に由来している。その記事には、リーグの結成についてこう書かれている: 「野球に熱心な日系人達が、11時間の及ぶ、7試合を熱狂的に見守った。各チームは日系企業や地元の宗教団体から出資を受け、第二次世界大戦後初めて日本語で発行されたニューヨークの新聞「北米新報」から寄贈された銀のトロフィーをかけて競い合った。

マサヒコ ・ラルフ・タカミ博士(1912-1967)が日系人リーグ開幕戦の始球式を行った。ラルフは、1907年に日本人互助会(1914年に日本人会と改称、現在はニューヨーク日系人会)を設立したニューヨークの一世、トヨヒコ・キャンベル・タカミ博士(1872-1945)の息子である。幼少の頃、ラルフと弟のモリヒコ(1915-1993)は、ローレンスヴィル・スクールの裕福なトッピング兄弟(ダニエル・R・トッピング、と、ヘンリー・J・トッピング・ジュニア)と同級生だった。ダン・トッピングはその後、1945年から1964年にかけてヤンキースの共同オーナーを務め、1948年から1966年には社長を務めた。

しかし、ニューヨークの日本人コミュニティ野球は、メジャーリーグのレベルとは、ほどとおいものだった。。。

ウォーリー・ヨナミネ

ハワイのマウイ島で生まれたウォーリー・ヨナミネ(1925-2011)は、沖縄と日本の血を引く二世で、プロフットボール選手として活躍した最初の日系人だった。1947年、サンフランシスコ・49ersのランニングバックとして活躍。オフシーズンの怪我が原因で1948年に49ersを退団。その後野球にに転向し、1950年、マイナーリーグ、ソルトレイクシティ・ビーズでプレーした。その年の秋、ヨナミネはヤンキースのスター外野手だったジョー・ディマジオや、ナショナルリーグで2度の打点王に輝き、マイナーリーグのサンフランシスコ・シールズの監督だったレフティ・オドールと食事をした。オドールは、1930年代に日本で野球を普及させることに貢献し、ヨナミネを読売ジャイアンツと契約させた。ヨナミネは日本プロ野球(NPB)で外野手、一塁手として12年間のキャリアを送った。NPBでの生涯打率は.311、1957年にはセ・リーグMVPを受賞し、1974年には中日ドラゴンズの監督として優勝に貢献した。この写真は、1974年のドラゴンズ優勝後の祝賀会で、胴上げされているウォーリー・ヨナミネを捉えたものである。ヨナミネはまた、内野手の足に向かってスパイクを立ててスライディングしたり、飛球に飛び込んだりするなど、アメリカの攻撃的な戦術を日本の野球に取り入れたことでも知られている。

1960年代の先駆者

1964年、村上雅則は、アメリカ大リーグで最初の日本人選手となり、サンフランシスコ・ジャイアンツで2シーズン在籍した後、日本の野球コミッショナーは、村上に、日本のチームである南海ホークスに戻るよう要求した。

1967年、マイク・ラムが日系人として初めてMLB選手となった。1975年にはライアン・クロサキ、1977年にはレン・サカタが続いた。ラムは外野手、一塁手としてMLBで15年のキャリアを積んだが、アトランタ・ブレーブス、シンシナティ・レッズでは、チームメイトのレベルが高かったため、先発のポジションを得るのは難しかった。クロサキは、セントルイス・カージナルスで、短期間プレーした。坂田はMLBで11年間ユーティリティープレーヤーとして活躍したが、選手引退後は、マイナーリーグの監督として能力を発揮した。MLBで監督やコーチの機会を与えてくれた球団はなかった。

        

シンシナッチ・レッズの厚意により

マイク・ラム

マイケル・ケン・ワイ・ラム(1945年生まれ)は、1967年にアトランタ・ブレーブスでデビューし、MLBでプレーした最初の日系人となった。ラムは、ハワイで日系二世の母と白人アメリカ兵の父の間に生まれたが、その後、中国系アメリカ人のムン・ルークとウィニフレッド・ラム夫妻の養子として育てられた。

1970年7月4日、AP通信によって養子縁組が明らかにされた後も、米国のマスコミは、ラムの日本人として側面には触れず、ニューヨークの日本社会のなかでも、ラムが日系人だということはあまり知られていなかった。外野手だったラムは、ヘンリー・アーロン、ラルフ・ガー、ダスティ・ベイカーの存在により、ブレーブスのスタメンに入るのは難しかった。

しかし、1971年からは外野だけでなく、一塁でも起用されるようになり、出場機会を増やし、1973年に最高のシーズンを送り、568打席で打率.294、16本塁打、82打点を記録した。1975年のシーズン終了後、ブレーブスはラムをシンシナティ・レッズにトレードした。レッズでの、ラムの評価は低く、レッズのスパーキー・アンダーソン監督は、ラムを 「ナショナル・リーグで最も過小評価されている選手 」と呼んだ。

ライアン・クロサキ

ライアン・ヨシモト・クロサキ(1952年生まれ)は、ハワイ州ホノルル生まれの日系3世。彼の両親は共に日系二世の、黒崎勝人と藤井エレノア敏子。1973年に、ネブラスカ大学からセントルイス・カージナルスと契約。カージナルスは、マイナー2年目のクロサキをシーズン開始直後に大リーグに昇格した。しかし、セントルイスのマスコミは、クロサキが、日本人であることを理由に批判した。『セントルイス・ポスト・ディスパッチ』紙の記事は、黒崎の最初の試合の前に、「忘れてくれ、エンシェント・オーダー・オブ・ハイバーニアンズ(アメリカ最大のアイルランド系カトリック団体)。彼のファーストネームはライアンだが、すべて日本人だ。」カージナルスの試合でクロサキの投球が不調に終わった際、セントルイス・ポスト・ディスパッチ紙の別の記事は、「ライアン・クロサキは長崎のように被爆した 」と中傷した。

クロサキはカージナルスで7試合に登板し、合計13イニングを投げて防御率7.62、その後、ダブルAのアーカンソー・トラベラーズに戻され、メジャーに戻ることはなかった。トラベラーズのアナウンサーで、後にチームのゼネラル・マネージャーとなったビル・バレンタインは、クロサキに起こったことを次のように語っている: 「A球団で1年、ダブルAで数週間投げた選手が、大リーグでリリーフとして登板するために引き抜かれ、そして、彼らは彼を送り返し、彼のことを忘れてしまった」。

セントルイス・カーディナルスの厚意により

レン・サカタ

ニューヨークのMLB球団でプレーした最初の日系人選手は、ハワイ州ホノルル生まれの日系4世、レン・ハルキ・サカタ(1954年生まれ)だった。サカタはMLB選手として最後のシーズンとなった1987年にヤンキースで2カ月半プレーした。ライアン・クロサキと高校時代のチームメイトだったサカタは、ゴンザガ大学から1977年にミルウォーキー・ブリュワーズと契約し、MLBでプレーした3人目の日系人となった。サカタは、二塁手、遊撃手として、11年間のMLBキャリアでは、主にユーティリティープレーヤーとして活躍した。1983年には、アジア人およびアジア系アメリカ人として初めてワールドシリーズに出場。優勝したボルチモア・オリオールズのメンバーだった。現役引退後、サカタは、はマイナーリーグの監督として長いキャリアを送った。

バトンタッチ

村上雅則がMLBでプレーしてから30年後、野茂英雄が、日本人選手がカリフォルニアにやってきた。今度はサンフランシスコ・ジャイアンツではなく、ロサンゼルス・ドジャースの一員として。1995年に野茂が入団した時、ドジャースの監督だったトム・ラソーダは、野茂を 「日本人選手のアメリカ移籍のパイオニア 」で「先駆者 」と評した。

野茂が先発投手として大ブレイクした直後、他の日本人選手もそれに続いた。伊良部秀輝投手(1969~2011年、1997年にヤンキースでMLBデビュー)、長谷川滋利投手(1968年生まれ、1997年にアナハイム・エンゼルスでMLBデビュー)、大岡智投手(1976年生まれ、1999年にボストン・レッドソックスでMLBデビュー)、佐々木主浩投手(1968年生まれ、2000年にシアトル・マリナーズでMLBデビュー)などである。鈴木一朗外野手(1973年生まれ、シアトル・マリナーズ-2001年)と松井秀喜外野手(1974年生まれ、ニューヨーク・ヤンキース-2002年)は、今世紀に入って間もなくMLBに入団した。

2000年代初頭にMLBで、日本人選手が高い実績を残した一方で、メジャーリーグに昇格した日系人はほとんどいなかった。ラム、クロサキ、サカタ、そしてアトリー・ハマカー投手(1958年生まれ、1981年MLBデビュー)に続いて、2005年までに大リーグに在籍した日系選手は、ドン・ワカマツ(1963年生まれ、シカゴ・ホワイトソックス-1991年)、デーブ・ロバーツ(1972年生まれ、クリーブランド・インディアンス-1999年)、オナン・マサオカ(1977年生まれ、ロサンゼルス・ドジャース-1999年)である。マイク・ラムとレン・サカタは、MLBに日系人選手、コーチ、監督が少ないのは、制度的人種差別によるものだと批判している。

2006年以降、ヤンキースやメッツを含め、MLBには約24人の日系選手が在籍しているが、そのほとんどはパートタイムのユーティリティープレーヤーである。しかし、シェーン・ビクトリーノとカート・スズキは例外と言える。

地元ニューヨークの日系コミュニティは、毎年野球大会を開催し、アマチュア野球の伝統を受け継いでいる。ニューヨークのMLBレベルでは、カイル・ヒガシオカのような日系人選手や、千賀滉大のような日本人選手が、それぞれのチームと、市、地域、州、そして全米における日本人および日系人野球選手の遺産を引き継ぎ、社会貢献している。 

デレック・タツノ

写真は1979年、ハワイ・レインボー・ウォリアーズのヘッドコーチ、レス・ムラカミ(左)とデレック・タツノ(右)。野茂英雄や、その後の鈴木一朗、松井秀喜といった日本人選手の活躍にもかかわらず、1980年代から2005年にかけてMLBで活躍した日系ユーティリティプレーヤーはほんの一握りだった。2021年のハワイ・ヘラルド紙のインタビューで、レン・サカタは、アジア系アメリカ人がMLBで直面している問題について次のように語っている。「. . . 私たち日系人は時に二流階級の人々の集まりで、見向きもされない存在でした。当時のアジア人に対する固定概念は、運動神経が鈍く、誰にも相手にされなかった。だから、誰もスポーツをしようとしなかったんだと思う。私たちアジア人には、なじめないことのように思えたんだ。」

NCAA全米大学野球で初の20試合勝利投手であり、シーズン奪三振数歴代1位のデレク・タツノ(1958年生まれ)は、MLBの人種差別的な風潮を嫌い、1976年から1981年の間に、同じ球団から2度の指名を含む、MLBの4球団からの契約オファーを断り 、大学と日本のアマチュアチームで投手になることを選んだ。辰野の目的は、NPBでキャリアを積むことだった。しかし、MLB球団から毎年ドラフト指名されたため、MLBの規則でNPB球団と契約することができなかった。1982年、タツノは、5球団目となるミルウォーキー・ブルワーズにドラフト指名され、ブルワーズと契約しが、彼は、1988年に引退するまで一度もメジャーに行くことなく、野球界を去っていた。

 

 

The Star-Bulletin Fileの厚意により

マウイ島出身の先駆者

2006年と2008年、シェーン・ビクトリーノ(1980年生まれ)と、カート・スズキ(1983年生まれ)2人の日系選手がついにMLBで先発の常連となった。ともにハワイ州マウイ島ワイルクで生まれ育ち、年齢は3歳違いだが、ビクトリーノはセント・アンソニー・スクール、スズキは、近くのボールドウィン・ハイスクールに通っていた。ドジャースは1999年に高校からビクトリーノをドラフト指名し、2004年には、オークランドA'sが、カリフォルニア州立大学フラートン校からスズキをドラフト指名した。2004年、カリフォルニア州立フラートン・タイタンズの一員として、スズキはアメリカで最優秀捕手に贈られるジョニー・ベンチ賞を受賞した。また、同年タイタンズをNCAA全米大学野球チャンピオンシップに導いた。

ビクトリーノはポルトガル、ネイティブ・ハワイ、沖縄の血を引いており、2003年にサンディエゴ・パドレスでMLBデビューしたが、2006年にはフィラデルフィア・フィリーズで主に中堅手としてレギュラーに定着した。MLBでの12年間のキャリアで、ビクトリーノは生涯打率.275、4,630打席に立った。「フライング・ハワイアン」のニックネームを持つビクトリーノは、231盗塁を記録し、三塁打数ではNLを2度リードした。2008年、ビクトリーノはフィリーズをワールドシリーズ優勝に導いた。1枚目の写真は2014年のボストン・レッドソックスの試合で撮影されたもの。ビクトリーノは2012年から2015年までレッドソックスでプレーした。

日系四世だった鈴木は、2007年にA'sでMLBデビューを果たし、翌シーズンから捕手としてレギュラーに定着した。16年間のキャリアで、鈴木は5,563打席に立ち、打率.255、1,421安打を放った。2014年にはミネソタ・ツインズの一員としてオールスターに出場し、2019年にはワシントン・ナショナルズのワールドシリーズ制覇に貢献した。このカート・スズキの写真は、2019年にフィラデルフィアのシチズンズ・バンク・パークで行われた試合中に撮影された。 

アジア系アメリカ人の監督やコーチ

過去四半世紀の間にMLBで日系人やアジア系アメリカ人の選手数は増加しているが、MLBレベルでのアジア系アメリカ人の監督やコーチは増えていない。

ニューヨーク日系人会(JAA)が主催し、毎年5月から8月にかけて行われるトーナメントに出場した16チームのうちの1つ、2016年のチームニコニコの優勝写真。大会にはさまざまな職業の選手が出場する。この大会は1986年、日本協会のスポーツ委員会委員長であった加藤修司氏によって創設された。1990年、当時外務大臣を務めていた中山太郎氏が来日し、外務大臣杯を寄贈。同杯は、在ニューヨーク日本国総領事館大使臨席のもと、日本協会会長から贈呈される。この大会は、ニューヨーク日系社会におけるアマチュア野球の長い伝統を引き継いでいる。

2023年2月7日、MLB Develops Youth Academyから表彰されたカイル・ヒガシオカ(ツイッターに投稿した画像)。2枚目の写真は2015年8月4日、ニューヨーク・ヤンキースで投球する田中将大。日系四世のカイル・ヒガシオカ(1990年生まれ)は、2017年にヤンキースに入団し、2023年2月7日、サーマン・マンソン賞を受賞した。この賞は、ヤンキースの名捕手サーマン・リー・マンソン(1947~1979年)にちなんで名づけられたもので、毎年プロ選手やオリンピック選手に贈られ、社会奉仕活動やスポーツ選手としての功績が評価される。フィールド外では、ヒガシオカは地元カリフォルニアのMLBユース・アカデミーや、戦死した特殊作戦要員や名誉勲章受章者の子供たちに中等教育修了後の教育機会を提供する特殊作戦戦士基金でボランティア活動を行っている。

ヒガシオカは南カリフォルニアで育ちで、幼少期は日系人の友人はいなかったという。しかしヤンキースでは、日本人選手、田中将大と友情を育んだ。田中は英語が苦手で、チームメイトとの会話も通訳に頼っていた。2017年3月6日付のニューヨーク・タイムズ紙のインタビューで、カイルは日本語の上達を目指していることをこう明かた。「(日系人社会の)原則では、日本語を話さなければ日本人とみなされないんだ。僕も日本語を話すことは、日本人として誇らしきこと思う。」

ニューヨーク日系人会/JAAの厚意により

1) Official MLB Twitter account MLB  Develops (@MLBDevelops). 2023 年 2 月 7 日.

2) Wikimedia Commons.

ボビー・バレンタインの厚意により

これは2017年にニューヨーク市で撮影された、岩手市から来た若い野球選手たちがニューヨーク日系人会(JAA)の横断幕を持ってポーズをとっている写真だ。ニューヨーク日系人会はボビー・バレンタイン・スポーツ・アカデミーと絆基金とともに、岩手(日本の東北沿岸の県)から中学生野球選手を招待し、若い米国野球選手との野球トレーニングキャンプやトーナメントに参加させた。「ボビー・マジック2017」と呼ばれるプログラムの一環であるこの試合は、2011年の東日本大震災を生き延びた子どもたちの癒やしを促進するための主催者たちの取り組みの続きである。ボビー・バレンタインとJAAは日本の東北地方の若い選手がニューヨークを訪れる支援をし、またコネティカットから若いアメリカ人チームを東北でのプレーのために派遣した。野球が世界共通言語であり、文化を超えた娯楽であると再認識した午後だった。

1) Nisei Baseball Research Projectの厚意により

2) 在ニューヨーク日本国総領事館の厚意により

3) ニューヨーク・メッツの厚意により

ジャパニーズ・ヘリテージ・ナイト

1998年5月17日、ニューヨーク・メッツ対サンフランシスコ・ジャイアンツの試合開始前に行われたキャンドルスティック・パークの日系人デー。左から右(後列): サンフランシスコ・ジャイアンツのダスティ・ベイカー監督、ニューヨーク・メッツのボビー・バレンタイン監督、メッツの先発投手吉井理人、二世ベースボール・リサーチ・プロジェクト(NBRP)のケリー・ヨウ・ナカガワ所長、俳優でコメディアンのパット・モリタ(1932-2005)、ジャイアンツのマスコット、ルー・シール。モリタが初めて野球を体験したのは、第二次世界大戦中、家族とともに収監されていたギラ・リバー強制収容所だった。

2枚目の写真は、2022年8月25日にシティフィールドで始球式を行った森幹夫日本総領事が写っています。 左はメッツのマックス·シャーザー投手、右は元メッツの吉井理人投手。 ニューヨーク·メッツのコロラド·ロッキーズとのホーム試合前の式典は、野球が米国から日本に来て150周年を記念する日米野球歴史ナイトイベントの一環でした。

3枚目の写真は、メッツスタジアムで2023年8月25日に行われるジャパニーズ・ヘリテージ・ナイトで配布される野球帽の広告。試合はロサンゼルス・エンゼルス戦で、2023年ワールド・ベースボール・クラシックで日本のナショナル・ベースボール・チームを勝利に導いた大谷翔平が登場予定。このイベントは野球を通じた米日間の国際交流150周年を祝うもので、日本とアメリカの市民間の交流への関心と勢いを盛り上げることを目的とする。

「進行中のもの」

この展示は現在進行中であり、デジタル・ミュージアムに新しい日系アメリカ人野球のエフェメラやコミュニティからの体験談が寄せられるにつれて、拡大し続ける予定です。2023年秋には、1940年代から1980年代にかけてのニューヨーク日系人野球を網羅したコンテンツの拡充を予定しています。

スペシャルサンクス

寄稿者
トマス・マーティン博士はニューヨーク州立大学サリバン・カウンティ・コミュニティ・カレッジの史学・外国語の教授。ニューヨーク州立大学学長の最優秀教授賞を受賞し、アジア系アメリカ人友好クラブのファカルティ・アドバイザーを務める。ニュヨーク・タイムズ、北海道新聞、スヴェンスカ・ダーグブラーデットに寄稿し、サンフランシスコ、エバンストン、ポートランドで開催されたアジア系アメリカ人研究会にて日系アメリカ人史の論文を発表している

協力者
ケリー・ヨ・ナカガワ、NPO二世ベースボール・リサーチ・プロジェクト(NBRP)の理事
ビル・ステープルズ、野球史家・作家

協賛団体
二世ベースボール・リサーチ・プロジェクト(NBRP)



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