塩谷 たつじ (1897–1995)

塩谷たつじは、ニューヨークで暮らした一世であり、その生涯は、日本人移民が直面した職業上の制約、第二次世界大戦中に東海岸で行われた日本人移民の抑留、そして戦後の謝罪と補償を求めるリドレス運動の歩みを映し出している。1897年3月31日に兵庫県で生まれ、1924年にニューヨークへ渡った。

塩谷は鍛冶屋を営む家庭で育ち、自動車の製造方法を学ぶことを目的に渡米した。しかし、アメリカではすでに規格化された部品を組み立てる方式が自動車生産の中心となっていた。これは、車体を職人が手作業で成形していた当時の日本の金属加工とは大きく異なっており、塩谷は当初の計画を変更することになった。

渡米後、塩谷はまずコニーアイランドの遊戯施設で働いた。英語力が限られていた日本人移民の仕事が、家庭内労働や飲食店などに限定されることの多かった時代、塩谷も個人家庭に雇われて働いた。その後、修理業を始め、貯蓄した資金をもとに集合住宅への投資を行った。聞き取り記録によれば、最終的には約10棟の不動産を取得し、晩年にもそのうち数棟を所有していたという。

真珠湾攻撃後、塩谷の生活は一変した。1941年12月8日、ウェストチェスター郡リンカーンデールで、同郡警察によって逮捕された。法律によってアメリカ国籍の取得を認められていなかった一世移民であった塩谷は、政府から「敵性外国人」と分類された。1942年2月にエリス島で収容手続きを受けた後、ニューヨーク州のキャンプ・アプトン、メリーランド州のフォート・ジョージ・G・ミード、アイダホ州のクースキア抑留所へと移送された。聞き取り記録によれば、抑留期間はおよそ2年半に及んだ。塩谷はまた、FBIによる捜査を繰り返し受けたことを記憶しており、自身が日本国債を所有していたことが、当局の疑いを強めたのではないかと考えていた。

それから約40年後の1981年11月23日、塩谷は「戦時民間人の転住および抑留に関する委員会」がニューヨークで開催した公聴会に出席し、自らの戦時体験を証言した。塩谷をはじめ、一世、二世、三世の証言者たちが体験を連邦委員会の公的記録に残したことは、戦時中の抑留政策の実態を明らかにし、後の公式謝罪と生存する元収容者への補償を実現するうえで重要な役割を果たした。

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