清水 逸平 (1899–1985)

清水逸平は、アメリカに定住する以前にヨーロッパで経験を積み、第二次世界大戦中には日本人移民に対する突然の制限を経験した一世である。1899年に静岡県で生まれ、パリとロンドンの日本大使館で勤務したのち、1925年にニューヨークへ渡った。

ニューヨークでは歯科技工士として働いた。アメリカが第二次世界大戦に参戦すると、政府の役人が仕事場を訪れ、戦争が始まったため閉鎖しなければならないと告げた。役人は、次の通知があるまで立ち入りを禁じる張り紙をドアに掲げ、鍵まで持ち去ったという。しかし12月24日、役人が再び訪れ、「クリスマスプレゼントがある」と言って、その日から仕事場を再開してよいと伝えた。その後は、特に問題なく仕事を続けることができた。

清水は自身の人生を振り返り、つらいことはほとんどなかったと語っている。その理由の一つは、生涯を通じてほとんど病気をしなかったことだった。戦争が始まったときにも大きな被害を受けることはなかったが、大学を卒業した直後に長女を亡くしたことが、人生で最もつらい出来事だったという。

清水にとって、ニューヨークでの生活は日本よりも暮らしやすいものだった。日本では、親類や友人との付き合いが負担に感じられることがあり、互いに親切にしようとする人間関係そのものが煩わしく思われたと述べている。

7年ぶりに日本を訪れた際には、故郷の大きな変化に驚き、失望した。かつての穏やかな山や川は失われ、工場が立ち並び、どこまでが町でどこからが田舎なのか分からなくなっていたという。

一方で、清水はニューヨークを好み、その気楽な生活にすっかり慣れていた。高齢になっても一日に数時間歩くほど活動的で、60年間ほとんど病気をしなかったことを誇りにしていた。清水にとって、健康こそが何よりも大切な財産だった。

清水は写真撮影も好んだ。かつて所有していたニコンのカメラは泥棒に盗まれ、その後キャノンを購入した。また、2台持っていたムービーカメラも盗まれたという。こうした出来事をユーモアを交えて語る姿からは、ニューヨークでの長い人生を支えた、たくましさとおおらかな人柄がうかがえる。

Related Exhibits:

Media Type:

THEME: