岸はるは、20世紀のニューヨークで日本人移民が経験した経済的困難、人種差別、家族による労働、そして帰属意識の複雑さを伝える一世である。1904年、東京・品川に生まれ、18歳で結婚し、1923年に夫を追ってニューヨークへ渡った。
夫はそれ以前に学生としてニューヨークに一年間滞在し、1922年に日本へ帰国して岸と結婚した。その後、父親に「五年で帰国する」と約束し、再びニューヨークへ渡った。岸の証言によれば、このとき夫は商船員として入国したという。夫はニューヨークで自ら商売を始めたが、世界恐慌の影響を受けて事業に失敗した。
日本にいた岸の母は、帰国の準備をするから戻ってくるよう手紙で勧めた。しかし夫は、子どもを連れ、貧しいまま日本へ帰ることはできないと考え、家族はアメリカに残ることを決めた。生活を支えるため、夫妻はできる仕事を何でも引き受けた。
岸は、日本人移民が厳しい就職上の制約を受けていたことを振り返っている。多くの日本人は英語を十分に話せず、一般のアメリカ企業に雇われる機会も限られていた。そのため、料理人、執事、家事使用人として働くか、日本人経営の商店に勤めることが多かった。また、自ら小さな店やレストランを開く人々もいたが、家族が生活できる程度の収入を得るのが精いっぱいで、事業を大きく発展させることは困難だったという。
岸によれば、ニューヨークの日本人社会は西海岸に比べて小さく、人々の結びつきも弱かった。そのため、失業や貧困に直面した際に助け合う仕組みが十分ではなく、食べるものがなく、水だけで空腹をしのいだ人もいたと語っている。
また岸は、新聞による反日報道や、アジアにおける日本の軍事行動、日本人に関する扇情的な事件報道が、一般社会の日本人に対する疑念を強めたと記憶していた。日本人は危険だという印象が広がり、白人家庭で家事労働に従事していた人々が仕事を失うこともあった。岸は、こうしたニューヨークでの差別はカリフォルニアとは異なるものだったと述べている。西海岸には比較的大きな日本人社会が存在し、互いに支え合うことができた一方、ニューヨークでは日本人が各地に分散していたため、孤立しやすかった。
岸とその家族は、ニューヨークの都レストランに関わっていた。第二次世界大戦中、レストランが入っていた建物の所有者は、「日本人だからといって、あなたが戦争を始めたわけではない」と岸に語り、家族を追い出すことなく守った。その支援によって、都レストランは戦時中も営業を続けることができた。岸は、反日感情が強まるなかで示されたこの公平な態度を、重要な記憶として語っている。
戦後、強制収容を経験しながらもアメリカ軍に従軍した二世兵士たちの貢献が認識されるにつれ、日本人および日系人に対する見方も徐々に変化した。1952年に移民国籍法が成立すると、それまで法律上、市民権を取得できなかった一世にも帰化への道が開かれ、岸も後にアメリカ市民となることが可能になった。
岸は1962年に日本を訪れたが、記憶のなかの故郷はすでに失われていた。町の道や建物は変わり、幼い頃に渡った橋も、寄付をしたいと考えていた母校もなくなっていた。兄弟や旧友との間にも距離を感じ、日本で生まれ育った自分でありながら、もはやそこに落ち着くことはできないと悟った。
岸の言葉からは、率直で自立した人柄がうかがえる。彼女はアメリカ社会の開放性を好む一方、日本語、日本食、日本人社会への深い愛着を持ち続けた。岸にとって最も幸せな時間は、日本人の仲間と集まり、日本語を話し、寿司などのなじみ深い食事をともにすることだった。
インタビュー当時、岸には5人の子ども、11人の孫、1人のひ孫がいた。彼女の人生は、差別と困難に耐えながら家族を育て、ニューヨークに恒久的な生活の基盤を築いた一世女性の経験を伝えている。