田川キミ・ゲンゴ(1903–1987)は、ニューヨークの日系アメリカ人の創作コミュニティのさまざまな人々を結びつけた詩人、翻訳者、作家である。コーネル大学在学中から詩を発表し、ニューヨークに移って間もなく最初の著書を出版した。グリニッジ・ヴィレッジでは、夫の田川文治と暮らし、創作活動でも協力した。また、作家の石垣綾子による回想録『Restless Wave』の執筆を手伝った。第二次世界大戦中には、若い読者に向けた物語を通じて、日系アメリカ人に対する偏見や強制収容を取り上げた。
キミはハワイのホルアロアで、日本からの移民である父・源吾安重と母・チエの間に生まれた。父は作家であり、教師でもあった。一家はのちにカリフォルニアで暮らし、その後ニューヨーク州イサカに移った。キミは同地のコーネル大学に進学し、日系二世の女性としては早い時期の学生の一人となった。1926年には、コーネル大学の文芸誌『The Columns』に詩を発表した。その中には、滝廉太郎の「荒城の月」を英語の詩に訳した作品も含まれていた。1929年と1930年には詩の公募で評価を受けた。
コーネル大学でキミは、日本から来た学生、田川文治と出会った。文治はのちに画家、挿絵画家、グラフィック・アーティストとして活動する。二人は1932年にブルックリンで結婚し、その後、グリニッジ・ヴィレッジのマクドゥーガル・ストリートに暮らした。キミはすでに詩人として注目され始めており、文治はニューヨークに移ってから美術家としての仕事を発展させていった。二人の創作上のつながりは、キミの最初の著書にも見られる。文治はその口絵のために、キミの鉛筆画の肖像を描いた。
1933年に刊行された『To One Who Mourns at the Death of the Emperor』には、キミ自身の詩と、日本語の詩を英訳した作品が収められている。日本に関わる題材を直接扱った詩もあれば、簡潔な自由詩で個人の感情を表現した作品もある。翻訳作品の中には、本書で「Tessu Gengo」と記された父の詩も含まれていた。この詩集には、日本語と英語、キミと父それぞれの詩、そしてキミの詩と文治の肖像画という、いくつもの関係が刻まれている。日系二世の女性が出版した初期の著書の一つでもあった。
田川夫妻のニューヨークでの生活は、芸術だけでなく、それぞれの仕事によっても形づくられた。文治は絵画を発表し、本の挿絵を手がけたのち、グラフィック・デザインや地図制作で長く活動した。キミは救済局に勤務し、1940年までにはニューヨーク市福祉局の社会調査員となっていた。最初の著書以降、詩を発表する機会は少なくなったが、執筆やほかの作家とのつながりは続いていた。
その一人が石垣綾子である。日本生まれの石垣は、美術家である夫の石垣栄太郎とニューヨークで暮らし、女性の生き方や日本の軍国主義への反対について執筆していた。1940年には、ハル・マツイの筆名で回想録『Restless Wave』を出版した。その謝辞の中で、石垣は本の執筆を手伝ってくれたキミに感謝を述べている。キミが原稿について意見を交わしたのか、英語の表現を手伝ったのか、あるいは別の形で関わったのかは、現在参照できる記述からは分からない。それでもこの謝辞は、ニューヨークで接点を持った二人の女性作家のつながりを記録している。
キミと文治は、ニューヨークに広がる日系アメリカ人の芸術・文学の世界にも属していた。文治は絵画、児童書、地図、情報を伝えるための図版などを制作した。一方のキミは、詩、翻訳、ソーシャルワーク、若い読者のための物語に取り組んだ。石垣とのつながりは、この人々の関係を示す記録の一つであり、キミの本のために文治が描いた肖像画もまた、その一例である。二人の仕事からは、共同の制作や人と人との関係を通じて、文学と美術が結びついていたことがうかがえる。
戦争は田川家の暮らしを変えた。日本による真珠湾攻撃の後、日本国籍だった文治には、日本人の「敵性外国人」に課された夜間外出禁止などの制限が適用された。家族の証言によれば、一時期、自宅から出られなくなったこともあった。アメリカ生まれの日系二世であるキミは、移動について同じ制限を受けなかったため、用事を済ませたり、仕事を続ける文治のために資料を運んだりすることができた。ニューヨークの日系アメリカ人は、西海岸の人々に課された集団的な立ち退きの対象にはならなかったものの、戦時下の制限は田川家の生活と仕事にも及んだ。
戦時中、キミはキリスト教女子青年会(YWCA)の全国本部で働き始めた。1943年にはYWCAの会議で、移住先で生活を再建しようとする日系アメリカ人や、アフリカ系アメリカ人のコミュニティに関わる活動について話した。また、キミは再び物語を書き始めた。YWCAの雑誌『The Bookshelf』には、日系アメリカ人の少女フジ・メイを主人公とする三つの作品を発表している。物語では、日米それぞれの家庭や社会における家族関係、食べ物、学校生活、交際などが描かれた。最後の作品では、収容所を出たばかりの日系二世の少年が、フジ・メイの学校で自らの経験を話す。
これらの物語は、子ども同士の出会いを通じて、戦時下の偏見を取り上げる方法となった。キミは、強制収容を経験した若者を学校を舞台にした物語に登場させ、読者がその経験に目を向けられるようにした。同時に、戦争による大きな混乱の中でも続いていた、日系アメリカ人の家庭の日常を描いている。
戦後、キミはニューヨークでソーシャルワーカーとして働き、1950年から1952年にかけてニューヨーク・スクール・オブ・ソーシャルワークで教えた。のちに夫妻はブルックリンのコブル・ヒルに住み、キミは地元の街区団体の役員も務めた。1987年に亡くなった。
田川キミ・ゲンゴのニューヨークでの歩みには、詩、翻訳、小説、ソーシャルワーク、地域活動が含まれる。彼女の著書ではキミの言葉と文治の絵が出会い、石垣綾子の謝辞には別の作家の仕事における彼女の存在が記されている。そして戦時中の物語は、日系アメリカ人の経験を新たな読者に届けた。こうした足跡からは、出版された詩にとどまらず、ニューヨークでの数十年にわたる暮らしの中で創作を続けた、一人の作家の姿が見えてくる。
参考資料: 「A Union of Artists: Kimi Gengo and Bunji Tagawa」第1部・第2部;コーネル大学「Kimi Gengo: Author, Advocate, Asian American」。