石垣綾子 (1903–1996)

石垣綾子:ニューヨークに生きた文筆家

1927年、石垣綾子は画家の石垣栄太郎とともにユニオン・スクエアを訪れた。そこでは、イタリア人アナキストのニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティの処刑に抗議する人々が集まっていた。綾子は後年、その晩を人生における重要な経験として振り返っている。日本から渡米したばかりの若い女性にとって、ニューヨークは国境を越えた闘いに携わる人々との出会いの場だった。この街はやがて、文筆家、フェミニスト、そして日本の軍国主義に反対する活動家としての彼女の拠点となった。¹

綾子は1903年、東京に田中綾子として生まれ、1926年に渡米した。当初は、義兄が日本の外交官として勤務していたワシントンD.C.で、姉の家族と暮らしていた。しかし、外交官社会のなかで女性に求められる役割は、日本で彼女が抜け出したいと願っていたものと、さほど変わらなかった。1927年1月、綾子は女性に与えられた限られた役割を超える可能性を求め、ワシントンを離れてニューヨークへ向かった。そこで、社会主義の信念を持つ日本人移民の画家、栄太郎と出会い、生活と思想の両面で互いに支え合う関係を築き始めた。²

グリニッジ・ヴィレッジで、綾子は移民の芸術家、作家、政治活動家たちと交流した。その人間関係は、ニューヨークの比較的小さな日本人社会の枠を越えていた。ヨーロッパや中国からの移民との交流を通じて、女性の自由、労働者の権利、帝国主義をめぐる議論が交差する世界に身を置くようになった。ニューヨークは、日本の政治と世界各地の出来事を結びつける運動に参加しながら、日本を見つめ直すことのできる場所だった。この街での経験は、彼女が語りかける相手と、取り上げる主題の双方を広げていった。³

二人の暮らしを支えるには、日々の労働も欠かせなかった。栄太郎が絵を描く一方、綾子は商店や工場で働き、夏には二人でコニー・アイランドの売店を営んだ。大恐慌によって生活は厳しくなり、飲食店で働く友人のジャック白井が持ち帰ってくれる食べ物に頼った時期もあったと、綾子は後年振り返っている。こうした経験からは、文化活動や政治活動の背後に、不安定な仕事と、身近な人々の助け合いによって成り立つニューヨークでの生活があったことがうかがえる。⁴

白井との友情は、ニューヨークの日本人左派のあいだにあった相互扶助も示している。綾子は、自身の政治活動に反対する日本人の国家主義者たちから威嚇を受けたことを記している。公の場で反戦を訴える彼女は、とりわけ目立つ存在だった。白井らが彼女を守るために力を貸したことも、綾子の記憶に残っていた。ニューヨークの日本人社会には、国家への忠誠、ナショナリズム、日本の政策を批判する権利をめぐって、鋭い意見の対立があった。日本から遠く離れて暮らしていても、こうした対立が消えるわけではなかった。綾子にとって、政治活動を通じた友情は、思想を分かち合う関係であると同時に、身の安全を支えるものでもあった。⁵

1930年代、綾子はニューヨークの左派系出版文化と結びついた英語雑誌『ニュー・マッシズ』や『チャイナ・トゥデイ』への寄稿を通じて、自らの言論を展開した。彼女の記事は、日本の中国侵略と日本国内の状況、とりわけ貧しい女性たちの搾取を結びつけて論じていた。綾子は、女性の経験を国際政治の中心に位置づけた。工場労働、貧困、結婚、子どもを産むかどうかを選ぶ自由は、軍国主義や民主主義と同じ議論のなかで考えるべき問題だった。これらの出版物を通じて、彼女は日本の女性たちの生活を、アメリカの読者のあいだで交わされる議論へと持ち込んだ。¹

活動の場はニューヨークの外にも広がった。日本の侵略に反対する運動に参加し、舞踊家のシーラン・チェンや作家のヘレナ・クオら、中国人の協力者とともに募金活動や講演旅行を行った。1937年には一時ロサンゼルスに移り、日本語新聞『羅府新報』に寄稿した。同年、ニューヨークへ戻った綾子は、西海岸で触れた移民の暮らしを、のちに『Restless Wave』となる作品に織り込んでいった。⁴

1940年、ハル・マツイの筆名で刊行された『Restless Wave』は、自身の経験に創作を交えた作品だった。日本で女性に課される制約に抗う歩みと、アメリカでの生活を描き、綾子の文章をより広い英語圏の読者に届けた。その視点は、異なる社会のあいだを移動する経験から生まれた。彼女は日本の男女間の序列を批判するとともに、アメリカの日本人移民が直面する人種的な排除にも目を向けた。そこでは、個人の自立が、女性の選択を左右する大きな政治的状況と結びつけられていた。¹

一方、綾子の政治思想には緊張関係も含まれていた。日本の軍国主義への反対が、日本の文化的ナショナリズムや帝国的な思考に由来する前提と併存することもあった。海外で暮らす日本人女性として、彼女の立場は複雑だった。アメリカでは人種的マイノリティでありながら、出身国では帝国を構成する支配的な国民集団に属していたのである。彼女の文章には、こうした重なり合う状況が反映されている。日本語と英語の著作をあわせて読むことで、移住、政治的な人間関係、読者層の変化が、ジェンダー、連帯、国民としての意識に対する彼女の理解を、どのように形づくったのかが見えてくる。³

第二次世界大戦は、綾子の仕事を取り巻く状況を変えた。1942年、国吉康雄の働きかけにより、彼女は枢軸国に対抗する放送活動に参加した。その後、米国戦時情報局で翻訳と執筆に従事した。戦後はニューヨークの『北米新報』で新聞への執筆を再開した。しかし、冷戦初期に強まった米国政府からの圧力は、やがて石垣夫妻のアメリカでの生活を揺るがした。1951年、栄太郎が国外退去となると、綾子も彼とともに日本へ戻った。⁴

綾子のニューヨークでの歩みは、女性の日常的な経験と国際政治の問題をつなぐ仕事を展開した。その生涯は、一人の日本人移民女性がニューヨークの文学と社会運動に果たした役割を、彼女が生きた世界の複雑さとともに伝えている。

注

  1. Greg Robinson, “Ayako Ishigaki: Radical Issei Feminist Writer in Mid-Century America,” ディスカバー日系, 2020年10月20日。
  2. 松坂裕晃、Border Crossings: Anti-Imperialism and Race-Making in Transpacific Movements, 1910–1951(ミシガン大学博士論文、2019年)、185頁。
  3. 松坂裕晃「帝国、連帯、交差性:石垣綾子のトランスナショナルな思想史」『立命館アジア・日本研究学術年報』第5号(2024年)、1–23頁、特に14–18頁。
  4. Greg Robinson, “The Great Unknown and the Unknown Great: Feminist Writer Ishigaki Made Waves,” Nichi Bei Weekly, 2010年3月25日。
  5. NYU Special Collections, “Transnational Memory Making Among New York’s Japanese ‘Old Left’,” The Back Table。
  6. Karl Ichiro Akiya Papers, TAM 236, Box 2, Folder 26, “Ishigaki, Ayako (activist and author): Clippings and Correspondence, 1968–1987,” ニューヨーク大学タミメント図書館・ロバート・F・ワグナー労働文書館。
  7. Edward Yoshida, グレッグ・ロビンソンへのインタビュー, ディスカバー日系, 2017年2月17日;Yi-Chun Tricia Lin and Greg Robinson, 石垣綾子著 Restless Wave: My Life in Two Worlds, a Memoir のあとがき(ニューヨーク:Feminist Press、2004年)。
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