田中菊枝は、ニューヨークで長年営業した日本食レストラン「末広」を経営した一世の事業家である。1900年に熊本県で生まれ、1919年に渡米した。その後ニューヨークに定住し、夫とともに飲食業に携わった。末広は、マディソン・アベニューに近い東29丁目35番地に位置していた。
田中は、飲食業を始めた当初、レストラン経営の経験を持っていなかった。日本では女学校を卒業していたが、接客については、客との日々のやり取りを通して学び、そこで得た知識を店のウェイトレスたちに教えた。田中の経営のもと、末広は行き届いた接客と日本式のもてなしで知られるようになった。
当時、日本食がまだアメリカで広く知られていなかったなか、末広は日本人住民だけでなく、日本人以外の客にも料理を提供した。同店は、より広いニューヨークの人々に日本の食文化や食事の習慣を紹介するとともに、市内の日系人社会における商業と交流の場の一つとなった。
末広は、ニューヨークに新たに移り住んだ日本人に実際的な支援を提供する場でもあった。ある一世は、知人のいないままモンタナ州からニューヨークに到着し、末広を訪ねたところ、店を切り盛りしていた女性から助けを受けたと回想している。ほかの証言からも、田中が日本人を雇用し、新しく来た人々の住居探しを手助けしたことがうかがえる。このように末広は、単なるレストランではなく、ニューヨークで生活を始める日本人移民にとって、地域の日系社会とつながるための非公式な窓口としても機能していた。
田中は、アメリカにおける日本人移民の立場や、日本文化に対する社会の見方が大きく変化する過程を経験した。かつて日本人住民が公然とした差別や侮蔑的な言葉にさらされていた時代を記憶していた一方、戦後には日本食レストランが各地に広がり、日本の食文化がアメリカ人の間で受け入れられていく様子を見届けた。
田中は、アメリカで生活の基盤を築きながらも、日本への強い思いを持ち続けた。後にアメリカ市民権を取得し、成人後の人生の大半を過ごしたニューヨークにとどまった。その回想は、一世の親たちとアメリカで育った子どもたちとの間に生じた、文化的・世代的な隔たりについても伝えている。
田中菊枝は、末広レストランの経営を通じて、ニューヨークの日系移民社会の形成に貢献した。末広は、食事や雇用を提供するだけでなく、人々を結びつけ、新たに到着した移民を支援する場となり、日本の食文化ともてなしを何世代ものニューヨーカーに伝えた。
出典: 中西康子『母国は遠く―ニューヨークに生きた日系一世の記録』夏目淳編(WormBooks、2023年);松本正男聞き取り記録;「Kikue Tanaka」訃報、『ニューヨーク日米』1987年1月15日;「Suehiro Restaurant」広告、Pacific Citizen、1957年12月20日。