ハリー・ヨークは1904年、東京の三田に生まれ、1925年に渡米した。シアトルから入国したとみられ、その後ニューヨークに定住した。インタビューには、冒険に満ちた一方で、不安定でもあった若き日の経験が語られている。小学校を卒業せずに家を出て横浜へ向かい、海外へ渡る船に乗り込んだ。その旅はオーストラリア、シンガポール、ヨーロッパへと続き、最終的にアメリカへたどり着いた。マレー語を身につけて通訳を務めたことや、インドネシア人としてイギリス船の乗組員になったことも回想している。ヨークによれば、彼がアメリカで下船した後、その船は65人の乗組員とともに沈没したという。
ニューヨークでの最初の数年間は、貧困と不安定な仕事の連続だった。皿洗い、ジャガイモの皮むき、家庭内の仕事などに従事し、地下鉄の駅や公園、路上のベンチで眠ることもあった。それでも、当時の自分には強い希望と野心があったと振り返っている。レストランで働いていた頃について、「皿洗いで満足していたら、今でも皿を洗っていただろう」と語った。
23歳頃、ブロードウェイを歩いていたヨークは、彼のような外見の人物を探していた人から声をかけられた。この偶然の出会いが、俳優、エンターテイナーとしての活動の始まりとなった。ヨークは、自分がニューヨークで最も多く仕事を求められたアジア系俳優の一人だったと語り、キャスティング担当者がほかの候補者を探す前に、まず自分のもとを訪れたと回想している。また、約500人が参加したMGMのスクリーンテストにも言及している。遅刻し、身なりも整っていなかったにもかかわらず、「君に仕事が決まった。ほかの者は皆、帰ってよい」と告げられたという。
第二次世界大戦中、ヨークはホワイトハウスで働き、エレノア・ルーズベルトに仕えたと回想している。彼女はヨークに非常に親切だったという。徴兵対象となった際には、ルーズベルトが戦地へ送られないよう働きかけたと語っている。その後、ヨークは再び芸能活動に戻り、アメリカ各地を巡って兵士たちのために公演を行った。この仕事によって、戦時中にもかかわらず、全米を比較的自由に移動することができたと考えていた。
ヨークは1953年に俳優業を引退し、その後は別の仕事で生計を立てた。晩年に人生を振り返った際、俳優としての経歴は、はるかに大きな人生の一部分にすぎないと捉えていた。インタビューから浮かび上がるのは、船上での生活やレストランの厨房から、ニューヨークの芸能界、さらに戦時下のワシントンにまで活動の場を広げた、たくましく、独立心と強い自信を備えた一世移民の姿である。ヨークの肖像は、周囲から課された限界を受け入れず、何度も自らの人生を切り開いた一人の人物の物語を伝えている。
※本プロフィールは、ヨークの手書きのインタビュー記録に基づいている。特に印象的な出来事のいくつかは、史料によって独立に確認された事実ではなく、本人の回想として記載した。