1937年 12月
世界のデモクラシーを防衛する
スペインと中国の民衆に捧げる展

Fig. 107. 石垣栄太郎《逃亡》
Fig. 108. 保忠蔵《日本を覆う軍国主義》(1937年頃)
Fig. 109. 鈴木盛《戦争》
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日本人芸術家は、アメリカで活動する芸術家としては美術界で認識されつつありました。しかし、1930年代後半のアメリカで日本人芸術家は、日本の中国侵入をめぐって国際情勢の悪化が懸念される中で、市民権が無いという立場に置かれ、状況は厳しさを増していきました。 

1937年7月に日中戦争が始まると、ルーズベルト大統領はシカゴでの演説で「侵略国を隔離せよ」と日本の中国侵入を非難し、日米関係は悪化していきます。そして日本は11月のブリュッセル会議への参加を拒否し、九か国条約を破棄します。これは1922年のワシントン軍縮会議から続くワシントン体制の崩壊を意味しました。 

さらに12月には中国の揚子江附近で日本海軍がアメリカの砲艦を沈没させた「パナイ号事件」が起こり、アメリカでは日本に対する非難が高まっていきました。そのような中、アメリカ美術家会議は1937年12月に「世界のデモクラシーを防衛する-スペインと中国の民衆に捧げる」展を開きます。同展の開催実行委員長を務めたヘンリー・グリンテンカンプ(Henry Glintenkamp)は、日本の戦争とファシズムに抗議し平和とデモクラシーの必要を明確にする企画であると開催の趣旨を述べています。

「5番街550番地で開かれている「世界のデモクラシーを防衛する スペインと中国の民衆に捧げる」展では、日本人芸術家が日本の戦争君主に対する侮辱を作品に表現している。保忠蔵の《日本を覆う軍国主義》は全身を豪華に飾り威張りちらす日本の軍人が乗る戦車に、土地のすべてを荒らされ押しつぶされる日本の農村の姿を描いている。石垣栄太郎の《逃亡》は子供と身の回りの品を抱えて、炎に包まれた街から逃げる中国の小作農を描いている。鈴木盛の《戦争》は、頭蓋骨、死人、ガスマスク、銃剣、ヘルメットと塹壕をほんどシュールレアリムスに描いた作品である。」

(Denouncing War in Paint: Japanese Artists Portray Horrors of War Machine: Their Show is dedicated to the Peoples of Spain and China”. New York Post, Dec.14, 1937)

「最も憤りを表した作品は、石垣栄太郎と鈴木盛の二人の日本人である。鈴木盛の《戦争》は、銃剣の様な肋骨とこれまでに経験したことが無いようなひどい二日酔いのような顔をした歯をむき出しにした軍隊帽の骸骨に抱かれた死んだ中国人を描いている。」 

(“Fascism, War Kicked Around in Artists’ Congress, Japanese Critical.” New York World Telegram, Dec.16, 1937)

この展覧会と共に開かれたシンポジウムでは、日本の中国侵入とスペイン内乱への抗議と、日本製品のボイコットが決議されました。また国吉康雄は、アメリカの市民権がないことを理由にメトロポリタン美術館に作品が購入されなかったことはWPAの日本人の解雇と同様の差別だと訴えたほか、

パブロ・ピカソは電報で平和を訴えました。

「芸術家は人類と文明という最も尊いものを脅かす戦争に無関心であるべきではない」

これらのことから、1937年12月に開かれた「世界のデモクラシーを防衛する-スペインと中国の民衆に捧げる」展は、日本人芸術家が軍国主義とファシズム勢力に対する非難を示し、反戦を明確に訴えた展覧会だと位置付けられるでしょう。