川村吾蔵

Year: 1884-1950

長野県出身。1904年にアメリカに渡る。ボストンの彫刻家ヘンリー・キッソン(Henry H. Kitson)に師事し、クインジー・デッサン・スクールに学ぶ。1906年にニューヨークに移り、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインに入学。同校卒業後はフレデリック・マクモニスの助手となりマクモニスと共にとフランスに渡る。パリのエコール・デ・ボザールで学んだ後、ニューヨークに戻る。1922年の画彫会の展覧会、1927年の紐育新報社の邦人美術展覧会に出品する。

このほかにもプリンストン大学の《ジョージ・ワシントン戦勝記念碑》やニューヨーク・パブリック・ライブラリー入り口の《哲学(Truth)》、《美(Beauty)》、ニューヨーク市庁舎前の広場に設置されていた《市民道徳(Civic Virtue)》(現在はグリーンウッド墓地に設置)、ワシントンDCの最高裁判所の《Authority of Law》、《Contemplation of Justice》の彫刻やクーリッジ大統領、野口英世など著名人の胸像を制作した。1940年のニューヨーク万博の際、日本館入り口の彫刻も手掛けた。またジャージー種とホルスタイン種の乳牛の彫刻は畜産業の関係者からも評価された。1940年に帰国し、世田谷区経堂にアトリエを構える。第二次大戦中は長野県に疎開し、終戦を迎える。戦後、長野県上田市に駐屯した占領軍の通訳となる。1947年デッカー司令官の招きに応じて横須賀基地美術最高顧問として横須賀に移り、1950年に横須賀で死去。

参考:長野県信濃美術館『没後50年 川村吾蔵展』 (展覧会図録)長野県信濃美術館 (2000)、佐久市教育委員会『佐久市 河村吾蔵記念館図録』(2010)、『紐育新報』、『日米時報』

このエントリーは、デジタル企画展「戦前期ニューヨークの日本人画家たち-1910年代から1940年代までの芸術の軌跡-」で紹介されたものです。

Added Date: 03/02/2024