国吉 康雄 (1889-1953)

国吉康雄は1889年、岡山県に生まれた。日露戦争終結後の1906年、16歳で労働移民として単身渡米した。当初から画家を目指していたわけではない。アメリカ西部で厳しい労働生活を経験した後、ロサンゼルスで教育を受ける機会を得たことにより、その芸術的才能を見出された。その後ニューヨークへ移り、ロバート・ヘンライ・スクール、インディペンデント・スクール・オブ・アートを経て、1916年からアート・ステューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークで学んだ。

国吉の歩みは、逆境を乗り越えた孤独な天才の成功物語としてのみ捉えるべきものではない。画家としての成長と成功は、アメリカの教育機関や社会制度、支援者、教師、仲間の芸術家たちとのつながりによって支えられていた。

アート・ステューデンツ・リーグではケネス・ヘイズ・ミラーに師事し、ヨーロッパの巨匠や、オノレ・ドーミエ、エル・グレコなどの作品について学んだ。また、芸術家であり支援者でもあったハミルトン・イースター・フィールドは、国吉にメイン州での制作場所を提供し、幅広い芸術家のネットワークへと導いた。こうした人々との関係や、アメリカの美術界が提供した機会を通じて、国吉は次第に同時代を代表する画家の一人として認められるようになった。

国吉は学生時代から作品を発表し、1920年代にはニューヨークの近代美術運動における重要な存在となった。単純化された形態、独特の空間構成、繊細な色彩、ユーモア、視覚的な曖昧さを組み合わせた作品を生み出した。

その主題は、生涯を通して大きく変化した。動物、風景、空想的な場面から、静物、女性像、サーカスの芸人、仮面、そして戦後の象徴的な構図へと展開した。批評家たちはしばしば、国吉の作品を日本美術またはヨーロッパ美術からの影響によって説明しようとした。しかし国吉自身はこのような分類を拒み、自らの芸術を、アメリカでの経験を通じて形成された独自の表現である「クニヨシイズム」と表現した。

1929年、ニューヨーク近代美術館は国吉を、重要な展覧会「Nineteen Living Americans(19人の存命アメリカ人作家)」の出品作家の一人に選出した。その後も、国吉の作品は国内外の主要な展覧会に出品された。

1944年には、カーネギー・インスティテュートの国際美術展で一等賞を受賞した。1948年、『Look』誌が全米の美術評論家、学芸員、美術館館長を対象に実施した調査では、アメリカを代表する画家の一人として高く評価された。同年、ホイットニー美術館は国吉の大規模な回顧展を開催した。これは、同館が存命作家を対象に開催した初の回顧展であった。さらに1952年には、アレクサンダー・カルダー、スチュアート・デイヴィス、エドワード・ホッパーとともに、ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表作家に選ばれた。

国吉の功績は、絵画制作だけにとどまらない。1933年、国吉はアート・ステューデンツ・リーグの教員に選出され、同校で教鞭を執った最初の日本人となった。1953年に亡くなるまで、影響力のある教育者として、多様な人種的・文化的背景を持つ学生たちを指導した。その中には、日系アメリカ人画家の金光松美(マイク・カネミツ)も含まれる。

国吉は、学生が教師の画風を模倣するのではなく、それぞれが自らの表現方法を発見することを重視した。芸術教育とは、学生自身の視覚言語を育てるものであると考えていた。

また、国吉は芸術家による社会的・政治的な組織活動にも深く関わった。1930年代にはアメリカ美術家会議の設立に参加し、ファシズム、戦争、芸術の自由、そして芸術家が社会に対して負う責任についての議論にも加わった。

1946年、約400名の芸術家がニューヨーク近代美術館に集まり、視覚芸術家の経済的・職業的権利を守るための全米規模の組織、アーティスツ・エクイティ協会を設立した。国吉は初代会長に選ばれ、1947年から1951年までその職を務めた。教育者、社会活動家、組織の指導者としての活動は、国吉の歴史的な重要性が絵画作品だけでは説明できないことを示している。

日本とアメリカの開戦は、国吉を極めて困難な立場に置いた。当時のアメリカの帰化制度には人種的な制限があり、日本人移民による市民権の取得は長年にわたり認められていなかった。そのため国吉は、10代からアメリカで生活し、教育を受け、画家として活動していたにもかかわらず、法的には日本国籍のままであった。

1941年12月の真珠湾攻撃後、アメリカ政府は国吉を「敵性外国人」に分類した。銀行口座は凍結され、カメラや双眼鏡は没収され、ニューヨーク市外への移動も制限された。

それでも国吉は、日本の軍国主義に公然と反対し、アメリカの民主主義の理念を支持した。戦時情報局のために戦争に関するドローイングを制作し、日本に向けたラジオ放送に参加するとともに、ニューヨークの「日系アメリカ人民主主義芸術評議会(Arts Council of Japanese Americans for Democracy)」の議長を務めた。戦時中の作品は、戦争と軍事的暴力を厳しく告発するものであった。また、こうした活動を通じて、ファシズムに反対する日系の芸術家、作家、ジャーナリスト、社会活動家たちと協働した。

しかし、国吉の立場を、日本とアメリカのどちらに忠誠を尽くすかという単純な選択として捉えるべきではない。国吉は日本の軍事政権の行動を批判する一方、日本人移民や日系アメリカ人が受けた差別についても理解していた。戦後は、強制収容された日系人や、日本で被害を受けた民間人に対しても深い同情を抱いていた。

また、冷戦初期に行われた政治的な弾圧や、芸術家、労働運動関係者に対する政府の調査にも強い懸念を持っていた。国吉の判断と行動は、民主主義、市民権、芸術の自由、そして不平等な社会制度の中で個人が果たすべき責任についての継続的な問題意識に基づいていた。

生前の国吉はアメリカで極めて高く評価されていたが、1953年の死後、その存在は次第に人々の記憶から遠ざかっていった。アメリカでは、戦後美術の歴史が抽象表現主義を中心に構成され、後にはポップアートが重視されるようになった。

国吉は、色彩や構図を大きく変化させながらも、最後まで具象表現を捨てなかった。そのため、戦後に新しく形成されたアメリカ美術史の物語の中に、国吉の作品を位置づけることが難しくなった。

日本にも、国吉を評価するための確立された基準がなかった。国吉と同世代で、日本国内において高い評価を受けた画家の多くは、東京美術学校で学び、その後パリへ渡った日本人画家たちであった。

これに対して、国吉には日本における美術学校の学歴も、日本での画業もなかった。その教育、職業上の経歴、芸術家としての評価は、アメリカで形成されたものであった。当時の日本の美術界では、依然としてパリが近代美術の中心と考えられており、アメリカ美術への関心は低い状況にあった。

1931年、国吉は渡米後初めて、そして生涯で唯一となる日本への帰国を果たした。この際、一部の日本の批評家は、彼の作品をアメリカ的なものではなく、フランス風の絵画であると評価した。国吉自身はこうした見方に反論し、自らの作品はあくまでも「クニヨシイズム」であると主張した。

しかしその後、日本における国吉作品の解釈には、「憂愁」「哀感」「郷愁」「孤独」といった言葉が繰り返し用いられるようになった。1954年に国立近代美術館で開催された「国吉康雄遺作展」以降、女性像、仮面、サーカスの芸人、晩年の鮮やかな色彩などが、国吉個人の悲劇を表現したものとして解釈される傾向が強まった。

こうして、「故国日本と育ての国アメリカとの間で引き裂かれた画家」という物語が、国吉の人生と作品を説明する代表的な枠組みとなった。

この物語は、日本における国吉の認知度を高める役割を果たした一方、その作品理解を狭めるものにもなった。芸術上の判断、教育活動、政治的な信念、芸術家としての人間関係、社会運動への参加といった具体的な事実が、次第に「二つの国の間で引き裂かれた人生」という一般化された物語の背後に隠されていった。

国吉自身が作品について明確な説明を残すことが少なかったため、後世の研究者や批評家は、個々の作品に悲しみや文化的葛藤を投影して解釈することがあった。

その後の研究と展覧会では、こうした従来の国吉像が改めて検討されるようになった。2004年に開催された「国吉康雄展 アメリカと日本、ふたつの世界のあいだで」では、作品を自動的に「哀感」と結びつけるのではなく、変化する画風、繰り返し登場するモチーフ、歪められた空間構成、そして国吉が生きたアメリカ社会との関係が考察された。

さらに、2013年にベネッセアートサイト直島で開催された展覧会と、2015年のスミソニアン・アメリカ美術館における大規模な回顧展を契機として、国吉の絵画、写真、教育活動、政治的実践、そして芸術家組織における指導的役割が、再び広く注目されるようになった。

国吉康雄を、移民として成功した英雄としてのみ、あるいは二つの国の間で引き裂かれた悲劇的な画家としてのみ捉えるべきではない。国吉は、アメリカで教育を受けた近代美術家であり、人生の大半において市民権を認められなかった移民であり、尊敬された教育者であり、芸術家の権利を守る活動家であり、20世紀ニューヨークの政治的・文化的議論に積極的に参加した人物であった。

これらの役割を相互に関連づけて考察することにより、従来の物語を越え、国吉康雄が芸術と社会の双方に残した功績の複雑さと重要性を、より正確に理解することができる。

参考文献・関連資料

 

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