牧野克次は、近代日本における洋画の初期発展に大きな役割を果たした京都の画家でありデザイナー。日本画と洋画の両方を学び、京都高等工芸学校の教授となり、意匠を教えるとともに若い世代の育成に尽力した。その歩みは、日本の急速な近代化と世界との文化交流の広がりを映し出している。
ニューヨークでの教育活動
1906年(明治39年)、42歳の牧野はニューヨーク美術学校(New York School of Art、ブロードウェイと80丁目)に招かれ、水彩画を教授した。当時のニューヨークは日本文化への関心が高まっており、牧野はその中心に身を置いた。滞在中、洋画の研究を続けると同時に、日本の美術を学生に紹介した。日本人がアメリカの主要な美術学校で教授として教壇に立つことは、当時としては画期的な出来事であった。
松楓殿の設計
1908年(明治41年)、43歳の牧野はニューヨーク州メリーウッド・パークに建てられた「松楓殿(しょうふうでん)」の大規模な設計を担った。この建物は特別な来歴をもつ。1904年のセントルイス万国博覧会で日本館として建てられた「鳳凰殿(ほうおうでん)」がその前身である。博覧会後、この建物は在米の化学者で実業家の高峰譲吉によって購入され、日米友好の象徴として移築された。
牧野はその内装と庭園設計を任され、京風の美意識を反映させた。襖絵、欄間彫刻、格天井など、平安時代の雅を思わせる意匠で空間を満たし、博覧会場の建物をアメリカにおける日本文化の象徴へと作り変えた。
二つの世界をつなぐ
牧野のニューヨーク時代は、個人的な転機であると同時に、より大きな歴史の一部でもある。当時、アメリカでは日本移民への制限が強まり、日本国内でも凶作や失業が深刻化していた。そのような状況の中で、牧野の活動は国境を超えた文化交流と相互理解を体現していた。
牧野の名は、ワシントンD.C.のスミソニアン協会に所蔵される「チャールズ・ラング・フリーア文書」(1913年)にも見られる。これは、アメリカを代表する東洋美術コレクターとの交流を示すものであり、牧野が京都とニューヨーク、二つの芸術世界を往来していたことを裏付ける。
レガシー
帰国後も牧野は教育者・芸術家として後進に影響を与え続けた。現在、彼の作品やデザインは日本の美術館に収蔵されており、2022年には京都工芸繊維大学美術工芸資料館にて「牧野克次と霜鳥之彦—洋画の諸相」展が開催され、彼の役割が再評価されている。
牧野克次のニューヨークでの歩みは、一人の京都の芸術家が人生の中盤で文化の架け橋となったことを示している。画家、デザイナー、教育者として、彼は芸術が海を越え、人々を結びつける力を持つことを証明した。
参考文献
京都工芸繊維大学美術工芸資料館『牧野克次と霜鳥之彦—洋画の諸相』展覧会図録、2022年2月21日–4月23日。https://www.museum.kit.ac.jp/20220221m.html
京都市京セラ美術館「牧野克次《落葉》(1903年)」コレクション・セレクション。https://kyotocity-kyocera.museum/100_selections/069
Smithsonian Institution, Charles Lang Freer Papers, 1876–1919(“Makino, Katsuji, 1913”)。https://sirismm.si.edu/EADpdfs/FSA.A.01.pdf
Digital Museum of the History of Japanese in New York「松楓殿—ニューヨーク州フォレストバーグ」。https://www.historyofjapaneseinny.org/jp/artifacts/shofuden-pine-maple-hall-in-forestburgh-ny/
京都市京セラ美術館、スミソニアン資料館、京都工芸繊維大学美術工芸資料館
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