ヘンリー・ユズル・杉本(1900–1990)は、60年以上にわたって活動した日系アメリカ人画家であり、移民、人種差別、戦時下の強制収容、そしてアメリカでの生活を作品に記録した。和歌山県に生まれた杉本は、1919年に両親の暮らすカリフォルニアへ渡った。カリフォルニア美術工芸学校で絵画を学んだのちフランスへ渡り、パリで活動する日本人芸術家たちと交流した。1931年には風景画の一点がサロン・ドートンヌに入選し、その後カリフォルニアへ戻った。1933年にサンフランシスコのリージョン・オブ・オナー美術館で開催された個展は、大きな注目を集めた。
第二次世界大戦中、杉本は妻スージー、娘マデリンとともに自宅から強制的に立ち退かされ、アーカンソー州のジェローム収容所とローワー収容所に収容された。杉本はそこで、有刺鉄線に囲まれた日常生活を記録するため、約100点の油彩画、水彩画、素描を制作した。通常の画材が手に入らないときには、シーツ、枕カバー、マットレスの布なども用いた。杉本にとって絵画は、周囲の人々と収容所での生活を記録すると同時に、政府による不当な行為に抗議する手段でもあった。
1945年にローワー収容所を出た後、杉本は戦前にサンフランシスコで保管していた作品が競売にかけられ、すでに売却されていたことを知った。作品も売却代金も取り戻すことができず、家族とともにニューヨークへ移住した。ニューヨークはその後、生涯にわたる杉本の生活の拠点となり、画家としての最後の40年間を過ごす場所となった。杉本は、テキスタイル・デザイナーや書籍の挿絵画家として家族の生活を支えながら、制作を続けた。出版物の仕事には、1949年刊行の賀川豊彦『Songs from the Land of Dawn』、1951年刊行のヨシコ・ウチダの児童書『New Friends for Susan』の挿絵などがある。
杉本はニューヨークでも精力的に作品を発表した。1962年と1965年にはギャラリー・アンテルナショナル、1974年にはウィーナー・ギャラリーで個展が開催された。これらの展覧会は当時、広く注目されたとはいえなかったが、強制収容を描いた作品は次第に、日系アメリカ人の歴史を伝える重要な資料として評価されるようになった。現在、全米日系人博物館は、杉本の風景画、ニューヨークを描いた作品、版画、挿絵、戦時下の強制収容を記録した絵画など、最大規模の作品群を所蔵している。
ここで紹介するアーカイブ資料は、ニューヨーク時代の杉本の生活と制作活動を伝えている。井上博行が撮影した肖像写真には、自作の絵画を背に座る杉本の姿が写されている。写真の背景に一部だけ見える作品は、あわせて残されたカラー写真から、セントラルパーク越しにマンハッタンの高層建築を望む風景であることがわかる。鮮やかな秋の木々、湖、空に向かってそびえる建物は、戦後の杉本が新たな生活を築いたニューヨークという都市の中に、画家自身を位置づけている。もう一点の作品には、フォート・トライオン・パーク内のクロイスターズ美術館を望む公園の風景と、その手前に置かれたピクニックの情景が描かれている。この作品からも、ニューヨークの建築、公園、季節の移ろいに対する杉本の関心がうかがえる。両作品は、在ニューヨーク日本国総領事館が所蔵している。
杉本のニューヨーク風景画は、最もよく知られている強制収容所を主題とした作品とは異なる題材を扱っている。しかし、それらもまた、杉本の長い芸術的歩みの一部である。井上の肖像写真で杉本の背後に置かれたセントラルパークの絵は、単なる装飾的な背景ではない。それは、強制収容後に生活を再建し、家族と暮らし、制作を続け、日系アメリカ人の歴史を後世に伝える運動に関わった都市と、晩年の杉本とを結びつけている。
関連資料からは、杉本の作品が、戦時下の強制収容をめぐる社会的な議論のなかで、どのように紹介されるようになったかもわかる。1978年9月発行の『ニューヨーク日米』は、アーカンソー州の収容所生活を描いた杉本の作品の一点が、合同メソジスト教会女性部の刊行物『Response』の表紙にカラーで掲載されたことを報じている。また同記事は、ニューヨークのインターチャーチ・センターで、杉本の強制収容所を題材とする作品群が展示されたことも伝えている。
1981年11月23日、杉本は連邦政府の戦時民間人転住・収容委員会がニューヨークで開催した公聴会に出席した。プログラムには、画家ミネ・オオクボをはじめ、強制収容を経験した人々や地域社会の関係者と並んで杉本の名が記されている。杉本は、のちに公式謝罪と補償を求めるリドレス運動へとつながる全国的な調査の一環として、自らの経験を証言した。