Kōsaku Yamada
山田耕筰 : カーネギーホールに登場した最初の日本人指揮者
1918年と1919年、山田耕筰(1886〜1965)は、カーネギーホールで自作曲による二度の演奏会を指揮した。カーネギーホールは、山田を同ホールに登場した最初の日本人指揮者としている。
これらの演奏会は、ヨーロッパに由来する管弦楽の伝統のなかで創作する日本人作曲家を、アメリカの聴衆に紹介するものだった。同時に、演奏会は戦時下の外交関係と、日本人芸術家に対して、明確で文化的に異質な「日本」を表象することを期待されていた。
ニューヨークにおける山田の受容は、20世紀初頭の文化交流がもつ可能性と限界の両方を示している。
本オンライン展示は、カーネギーホールの「スポットライト・オン・ジャパン(Spotlight on Japan)」の一環として制作された。
東京からベルリンへ
山田は東京音楽学校で声楽、チェロ、作曲を学んだ。1910年から1913年にかけてベルリンに留学して作曲を学び、リヒャルト・シュトラウス、アレクサンドル・スクリャービン、アルノルト・シェーンベルクをはじめとする同時代のヨーロッパの作曲家たちの作品に触れた。
ベルリンで山田は、のちに《かちどきと平和》と題された交響曲ヘ長調を完成させた。日本人音楽家が作曲した最初の交響曲として広く知られるこの作品には、ヨーロッパの管弦楽の伝統のなかで受けた教育が反映されている。
帰国後、山田は職業オーケストラの設立、国内の音楽家の活動機会の拡大、そして国境を越えて発展しつつあった演奏文化のなかに日本人作曲家の位置を築くことを目指した。
1918年10月16日、カーネギーホール
山田は1918年1月に渡米した。同年10月16日、カーネギーホールで自作曲のみを取り上げる演奏会を指揮した。出演者には、ニューヨークの主要オーケストラに所属する音楽家、ニュー・コーラル・ソサエティの団員、バリトン歌手クラレンス・ホワイトヒルらが含まれていた。
プログラムには、交響詩《暗い扉》《曼陀羅の華》、舞踊交響曲《マグダラのマリア》、《日本古代の伝説》、《御大典前奏曲》など、管弦楽曲と声楽曲が並んだ。
山田が披露したのは、いわゆる日本の伝統音楽ではなかった。日本とヨーロッパの双方で得た経験をもとに現代的な管弦楽曲を生み出す作曲家、そして自作を指揮する指揮者として舞台に立ったのである。その存在は、演奏会場において権威ある立場を担うことが誰に許されるのかという、当時の前提を揺さぶった。
音楽と戦時外交
山田の最初の演奏会は、第一次世界大戦終結直前に開かれた。当時、日本とアメリカは連合国として同じ陣営にあり、会場には石井菊次郎駐米大使をはじめ、ニューヨークの日本人社会とアメリカ社会の有力者たちが出席した。
休憩時間には、笠井重治がこの演奏会を当時の外交的文脈のなかに位置づけ、次のように述べた。
「山田氏を通じて、日本はあなたがたの心に響く普遍の言葉で語りかけている。」
この演奏会は、日本政府による公式行事ではなかった。しかし、登壇者や支援者たちは、これを日本とアメリカの友好を表す催しとして位置づけた。
音楽は、アメリカの聴衆に向けて日本を表象する媒体となった。だが山田の作品は、聴衆が期待した日本の文化的イメージに、必ずしも合致するものではなかった。
ニューヨークで「日本」を聴く
ニューヨークの批評家たちは、指揮者としての山田の力量と、管弦楽の色彩を扱う技術を評価した。同時に、その批評からは、日本人作曲家に向けられた人種的、異国趣味的な期待も読み取ることができる。
『ニューヨーク・タイムズ』は山田の音楽に見られる抑制を評価し、その特徴を日本の美術家、葛飾北斎の作品になぞらえた。一方、『イブニング・ポスト』の批評家は、山田の作品があまりにヨーロッパ的で、十分に未知で絵画的な「日本」のイメージを示していないとして、失望を表した。
こうした反応は、山田を二重の拘束のなかに置いた。批評家たちは、山田の音楽が国際的な音楽語法として理解できることを求める一方で、耳で聞き取れる文化的差異を示すことも要求したのである。
山田の作品は、「日本音楽」と「ヨーロッパ音楽」をそれぞれ固定された範疇として捉えるのではなく、近代の作曲が、人々の移動、学習、翻案、そして国境を越えた交流を通して発展したことを示している。
カーネギーホールでの二度目の演奏会
1918年11月11日の休戦協定によってヨーロッパでの戦闘は終結した。山田の二度のカーネギーホール公演は、この休戦を挟んで開催されたことになる。
1919年1月24日、ジャパン・ソサエティの主催により、山田はカーネギーホールで二度目の演奏会を開いた。プログラムには、交響曲ヘ長調《かちどきと平和》のアメリカ初演が含まれていた。
二度目の演奏会は、単なるデビュー公演の繰り返しではなかった。山田にとって初期の最も意欲的な交響曲を披露する機会となり、作曲家と指揮者の双方として、その公的な評価をより確かなものにした。
交響曲ヘ長調《かちどきと平和》(1912年)。山田はベルリンでの高度な音楽教育の一環としてこの作品を作曲した。日本人音楽家による最初の交響曲として広く知られ、後期ロマン派のヨーロッパ管弦楽の伝統のなかで受けた教育が反映されている。山田は1919年1月24日、カーネギーホールで同作のアメリカ初演を指揮した。
山田は1919年5月に日本へ帰国した。カーネギーホールでの演奏会が、ただちに継続的な国際指揮活動へと結びついたわけではない。それでも、日本人作曲家が自らの現代的な管弦楽作品を携え、その作曲者兼指揮者としてアメリカの聴衆の前に立ったことは、重要な先例となった。
これらの演奏会は、その後の山田の活動を通じて繰り返し問われることになる問題も提起した。日本人作曲家は、「日本音楽とはこう聞こえるべきだ」という他者の期待に限定されることなく、どのように国際的な音楽文化に参加することができるのか。
音楽と視覚文化
近代日本音楽を切り拓いた作曲家、指揮者であり、《からたちの花》《赤とんぼ》などの歌曲を生み出した山田は、美術や舞台芸術の領域でも活動した。ベルリンから帰国後、斎藤佳三とともに1914年の「デア・シュトゥルム木版画展覧会」を組織し、ヨーロッパの表現主義を日本に紹介するとともに、恩地孝四郎や長谷川潔らの芸術家にも影響を与えた。1922年に創刊した雑誌『詩と音楽』や、北原白秋、竹久夢二、恩地との共同制作からも、音とイメージを結びつけようとした山田の総合的な芸術観がうかがえる。
文化的指導力と戦時責任
山田は、近代日本音楽の発展に最も大きな影響を与えた人物の一人となった。オーケストラの設立に尽力し、日本人作曲家の作品を広めるとともに、交響曲、オペラ、映画音楽、合唱曲、歌曲など、幅広い分野の作品を残した。
その一方で、公的な音楽家としての活動は、日本国家と戦時下の諸制度にも深く関わるようになった。
アジア・太平洋戦争期、山田は国家主導の文化動員に参加した。1941年に日本音楽文化協会の副会長に就任し、その後、会長を務めた。情報局の管轄下に置かれた同協会は、戦時体制を支えるために音楽活動を統制、調整した。山田はまた、民間人や軍関係者に向けて演奏を行う音楽挺身隊の組織にも関わった。
1945年の敗戦後、こうした組織における山田の指導的役割は、公の批判と議論の対象となった。この歴史を過小評価したり、山田の経歴に対する評価から切り離したりすることはできない。
山田の芸術的功績を認めることと、その戦時下の活動を検証することは矛盾しない。山田が獲得した権威、彼が構築に関わった制度、そして音楽が政治的目的のために利用され得たことを理解するには、その両方が不可欠である。
遺産
山田のカーネギーホール公演は、アメリカにおける日本音楽史の重要な一場面となった。山田は、時代を超えた民族的伝統を体現する無名の代表者としてではなく、近代の作曲家、指揮者、そして文化の媒介者として演奏会場に登場した。
同時に、その音楽がどのように受け止められたかを見ると、文化交流が対等で中立な条件のもとで行われるわけではないこともわかる。ニューヨークの聴衆は、日本に対する人種的な先入観と、両国の政治関係を通して山田の作品を聴いていた。
これらの演奏会の意義は、まさにこの緊張関係にある。公演は日本人音楽家が国際舞台で活動する新たな可能性を切り開く一方、彼らの作品がどのように聴かれ得るかを制限し続けた期待と構造をも明らかにした。
Selected Sources
- Carnegie Hall Rose Archives. “Koscak Yamada Orchestral Concert, January 24, 1919.”
- Pacun, David. “‘Thus We Cultivate Our Own World, and Thus We Share It with Others’: Kósçak Yamada’s Visit to the United States in 1918–1919.” American Music 24, no. 1 (Spring 2006): 67–94.
- Tokyo University of the Arts Archive Center. “Rhapsody of Youth by Yamada Kōsaku, the Handwritten Manuscript.”
- Former Tokyo Music School Sōgakudō. “Yamada Kōsaku’s Path: Poetry and Music.”
- Tochigi Prefectural Museum of Fine Arts. “Yamada Kōsaku and Art.”
Exhibition Credits
This online exhibition was developed by the Digital Museum of the History of Japanese in New York as part of Carnegie Hall’s Spotlight on Japan.
Curator and Writer: Yuka Yokoyama
Digital Humanities Project Manager and Web Production: Mac Gill
Archival and Image Sources: Carnegie Hall Susan W. Rose Archives; Library of Congress, Prints and Photographs Division; Tokyo University of the Arts Archive Center; Tochigi Prefectural Museum of Fine Arts; Chiyoda City Board of Education; Aichi Prefectural Museum of Art; The New York Times; and the Yamada Kōsaku and Akatombo Lovers Association website.
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