山田耕筰:

カーネギーホールで指揮した最初の日本人

本デジタル展は、ニューヨーク日本人歴史デジタルミュージアム(DMHJNY)とカーネギーホールの協働によるもので、1918年から1919年にかけてニューヨークで活動した山田耕筰の軌跡をたどります。山田はカーネギーホールで指揮した初の日本人として、近代日本音楽を米国の聴衆に紹介し、日米文化交流史における画期的な一頁を刻みました。

本イベントは、カーネギーホール「Spotlight on Japan」の一環として開催されます。 Spotlight on Japan.

前奏(Prelude)

1918年11月、作曲家山田耕筰(1886–1965)は、戦後の新しい世界における文化の中心地として急速に台頭しつつあったニューヨークに到着した。わずか数か月後、彼はカーネギーホールで自身の作品を指揮・演奏した最初の日本人音楽家として歴史を刻む。その公演は、アメリカの聴衆に近代的で独自の日本音楽のヴィジョンを提示し、20世紀初頭の文化外交における転換点となった。芸術を媒介として、日本と西洋のクラシック音楽の伝統を結びつけたその瞬間は、山田の生涯と日本音楽史における象徴的な幕開けであった。

ニューヨーク滞在期の山田耕筰。国際舞台において日本人作曲家・指揮者の先駆者として頭角を現す彼の、威厳と気品に満ちた姿を写した一枚。 1915年から1920年の間に撮影されたこの写真は、アメリカ議会図書館所蔵ジョージ・グランサム・ベイン・コレクションに収められている。

ベルリン時代(1910–1914)

山田耕筰は、ベルリンの王立音楽大学(Königliche Akademische Hochschule für ausübende Tonkunst)でマックス・ブルッフに師事し、ヨーロッパ近代音楽の潮流に深く身を投じた。 岩崎小弥太男爵の支援を受けながら、彼はリヒャルト・シュトラウスアレクサンドル・スクリャービン、そしてアルノルト・シェーンベルクといった作曲家たちの新しい音楽語法に出会う。 その経験は、山田のロマン主義的感性を、和声の実験と形式の革新に基づく新たな表現へと転化させる契機となった。

ベルリンで『牧神の午後』リハーサル中のニジンスキーとバレエ・リュス(1912年12月) 出典="The Tatler" 1913年1月1日号

1912年、山田耕筰はニジンスキーによるバレエ《牧神の午後》(L’Après-midi d’un faune)の公演を観劇し、リズムと身体表現が交錯する前衛的な舞台に触れた。 その体験は、近代的な「日本の響き」を模索していた彼の創作意識と響き合うものであった。 この時期の作品《まだらの花》(Madara no Hana / Flower of Madara)や《暗い扉》(Kurai Tobira / The Dark Gate)には、西洋の管弦楽形式と日本的な情景イメージが融合し、東西の音楽を結ぶ新たな表現世界の萌芽が見られる。

1912年、ベルリンにて婚約者テア・シュミットとともに写る山田耕筰。 出典:山田耕筰『若き日の狂詩曲』

山田耕筰作曲:交響曲ヘ長調「勝利と平和」(1912)を聴く


交響曲ヘ長調《勝利と平和》(1912)は、山田耕筰がベルリン留学を終えた直後に作曲されたもので、日本人作曲家による最初期の本格的な交響作品として、日本の管弦楽史における画期をなす。後期ロマン派のヨーロッパ的様式と、新たに芽生えつつあった日本的感性を融合させたこの作品には、音楽を通じて日本と西洋を結ぼうとする山田の志が明確に表れている。

1918年のニューヨーク:同盟国の舞台

1918年から1919年にかけて、同盟国フランスと日本が二夜続けてニューヨークで自国の音楽を披露した。 山田耕筰の演奏会はフランス管弦楽団の公演の翌晩に開催され、メトロポリタン歌劇場、フィルハーモニック、シンフォニー・ソサエティの楽員に加え、ニュー・コーラル・ソサエティの百名を超える合唱団が共演した。 1918年10月17日付のニューヨーク・タイムズ紙は、この公演を「アメリカの地における芸術における東西同盟の初の出会い」と評している。

「日本人、母国の作品を指揮す」——1918年10月17日付のニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたこの記事は、山田耕筰が日本人として初めてカーネギーホールでアメリカのフル・オーケストラと合唱団を指揮した歴史的な夜を記録している。 メトロポリタン歌劇場、フィルハーモニック、ニュー・コーラル・ソサエティの音楽家たちが、山田の《秋祭》から《暗い扉》《まだらの花》に至るまで、全曲を彼の作品で構成したプログラムを演奏した。 評論家たちは彼の「鋭敏な統率力」と「近代的な管弦楽の色彩感」を称賛し、その精緻な芸術性を北斎になぞらえた。 バリトン歌手クラレンス・ホワイトヒルが日本歌曲を歌い、休憩中には笠井重治が登壇して「山田氏を通じて日本は、あなたがたの心に響く普遍の言葉で語りかけている」と述べ、音楽会を日米同盟の象徴として位置づけた。 会場には石井菊次郎駐米大使や高峰譲吉博士、さらにはオットー・カーン、ジェイコブ・シフといったニューヨークの名士も臨席し、この公演は「アメリカの地における東西同盟の初の芸術的出会い」として称えられた。 それは山田耕筰にとって音楽的勝利であると同時に、文化外交史上の画期的な出来事でもあった。

全文はニューヨーク・タイムズの記事をご覧ください。 New York Times Times Machine

山田耕筰の指揮は「鋭い統率力と見事な存在感に満ちていた」と評され、その作品は「フランスの師から中欧の轟音の覇者たちに至るまで、あらゆる近代管弦楽の色彩を取り入れながら、日本的抒情を融合させた」と記された。 旋律の節度ある構成は、浮世絵師・葛飾北斎の筆致にたとえられ、抑制の中に精緻な技巧と構築力を示していた。

At Carnegie Hall, New York (1918, Taishō 7): Conducting and performing his first orchestral works (rehearsal scene).

プログラムとレパートリー(Program and Repertoire)

Cover design by Kōshirō Onchi for the publication series Nikkyō Gakufu (“日響楽譜”), featuring the music of Kōsaku Yamada (1927–28, Japan Symphony Association Publishing) Private Collection

この夜のプログラムは、すべて山田耕筰自身の作品によって構成されていた。

  • 《秋祭》――ライプツィヒ留学時代に作曲された合唱作品
  • 《暗い扉》および《まだらの花》――将軍時代や仏教的イメージに着想を得た交響詩
  • 《プチ・スイート》――京都の民俗舞踊、東海道の旅、長崎の祭礼に着想を得た組曲で、プログラムには「東洋人による最初のスイート」と記されていた.
  • 《合唱交響曲》――メーテルリンク作『マリイ・マグダレヌ(Marie Magdalene)』に基づく作品
  • 《日本古代の伝説》
  • 《戴冠式前奏曲》――日本の国歌「君が代」に基づく作品

アメリカ人バリトン歌手クラレンス・ホワイトヒルは、山田耕筰の歌曲《漁夫とかもめ》《花の歌》《故郷に帰る》などを、日本語と英語の両方で歌い、大きな喝采を受けた。 評論では、メトロポリタン歌劇場のスターによって日本語の歌詞が歌われたことに、聴衆が強い喜びを示したと記されている。

1919年、アメリカのオペラ歌手クラレンス・ホワイトヒルが、《カルメン》でエスカミーリョ役を演じる際に着用したスペインの闘牛士の衣装姿を写した白黒ハーフトーン版画。 撮影:C・ミシュキン。

Kōsaku Yamada and Art

日本初の本格的な作曲家兼指揮者として知られ、《からたちの花》や《赤とんぼ》を生み出した山田耕筰は、同時に美術と舞台芸術の推進者でもあった。 ベルリンから帰国後、斎藤敬三とともに1914年に「シュトゥルム木版画展」を共催し、ヨーロッパ表現主義を日本に紹介した。 その影響は恩地孝四郎長谷川潔らの芸術活動にも及んだ。 1922年創刊の雑誌『詩と音楽』(Shi to Ongaku / Poetry and Music)や、北原白秋竹久夢二恩地孝四郎との共同制作においても、山田は「音とイメージの統合」という芸術理念を追求していた。

竹久夢二[装丁]『童謡集 妹尾・山田音楽叢書 第1集』(1926年) 所蔵:千代田区立教育委員会
竹久夢二[装丁]『愉快な鍛冶屋 妹尾音楽叢書 第357集』(1924年) 所蔵:千代田区立教育委員会
恩地孝四郎《音楽による抒情 第4番 山田耕筰作曲「日本の影絵」より「おやすみ」》(1934年) 所蔵:愛知県美術館
《スクリアビンの「エクスタシーの詩」に題す》 1922年 所蔵:東京国立近代美術館

音楽交流と文化外交

『日響楽譜』日本交響楽協会刊 恩地孝四郎装丁

山田耕筰のニューヨーク時代は、単なる芸術的到達点ではなく、太平洋を横断する文化外交の初期的な試みでもあった。 彼の音楽は、第一次世界大戦後に台頭した平和と国際主義の理念と共鳴するコスモポリタンな精神を体現していた。 公演を通じて山田は、日本が文化的に孤立しているという既成概念に挑み、近代日本の芸術的成果を西洋の聴衆に紹介したのである。

山田耕筰は、アメリカの音楽家、指揮者、ジャーナリストたちとも交流し、往復書簡を通じてネットワークを築いた。 これらの関係は、1920年代から1930年代にかけての日米音楽交流の基盤となっていく。 カーネギーホールでの成功は、若い日本人音楽家たちに海外留学の志を抱かせる契機となり、日本人作曲家の作品が国際的な演奏会のレパートリーに少しずつ加えられていく流れを生み出した。

《若き日の狂詩曲(わかきひのきょうしきょく)》——山田耕筰が60代の頃に自筆した全509ページに及ぶ原稿で、幼少期、東京音楽学校時代、そしてベルリンでマックス・ブルッフに師事した留学生活の鮮明な記憶が綴られている。 自伝は、チェロの初期学習から1912年に日本初の交響曲《勝鬨と平和》を完成させるまでの歩みを追い、西洋近代主義と日本的アイデンティティのあいだで葛藤する作曲家の姿を浮き彫りにしている。 原稿は「耕筰用箋」と呼ばれる特製の400字詰め原稿用紙に書かれ、入尾久保田の手により2009年に東京藝術大学アーカイブセンターへ寄贈された。 推敲の書き込み、ワーグナーやシュトラウスからの影響に関する注記、芸術と国家をめぐる内省などが随所に見られ、山田の創作過程と精神世界を生々しく伝えている。 今日、東京藝術大学音楽学部アーカイブを通して閲覧できるこの自筆原稿は、東西を架橋した作曲家の生涯を物語るとともに、その筆跡自体が日本が近代世界と出会った証として残されている。

長唄交響曲《鶴亀》(1934)を聴く


東京交響楽団長唄合奏団三味線合奏団囃子方による演奏。 指揮:湯浅卓雄/出演:宮田哲男(声)、味見徹(三味線)。

1934年に作曲された《長唄交響曲「鶴亀」》は、伝統的な長唄と西洋近代の交響曲を融合させた画期的な作品である。 山田耕筰は、鶴(つる)と亀(かめ)による長寿の祝福を題材とした十世杵屋六左衛門作《鶴亀》(1851年)を基に、木管二重奏、弦楽、ハープによる対位法的なオーケストラ書法を重ね合わせ、和洋両楽器の対話を協奏曲のように構築した。 長唄は、17世紀江戸で歌舞伎舞踊の伴奏音楽として発展し、声楽、三味線、笛、打楽器を組み合わせ、能、地唄、浄瑠璃などの美学を取り入れて成立した複合的な音楽形式である。 その総合的性格は、山田が追求した異文化融合の理想を表現するのにふさわしい媒体となった。 1934年の初演では、山田自身が指揮し、日本放送交響楽団(現NHK交響楽団)と名人級の長唄演奏家たちが共演した。 《長唄交響曲「鶴亀」》は、日本の古典芸能と20世紀のモダニズムを結ぶ象徴的な作品として、今なお日本音楽史における金字塔となっている。

戦時下の山田耕筰(1937–1945)

アジア太平洋戦争期、山田耕筰は日本音楽文化協会の会長を務め、音楽報国隊を創設して兵士や市民のための演奏活動を組織した。 戦時宣伝との関わりを持ちながらも、彼は音楽教育と文化的品位の向上を芸術の中に追求し続けた。 1940年の《神風》や《黒船》などの作品には、国家的使命感と芸術的自律性とのあいだに生じる緊張が表れている。 戦後、こうした選択をめぐって賛否が分かれたが、山田の経歴は国家統制下における創造活動の複雑さと、芸術家として生きることの葛藤を示す証となっている。

《東邦商業学校音楽部のパレード》(1941年)——1941年12月発行の東邦商業学校(名古屋)卒業アルバムより。 同校名物であったブラスバンド部の生徒たちが、陣野照実教諭(旧陸軍戸山学校軍楽隊出身)の指導のもと、整然とした隊列で行進しながら演奏を行う様子が写されている。 その規律ある動きと軍事的な姿勢は、戦時下の日本で学校音楽がいかに軍国的色彩を帯びていったかを示している。 当時、学校の吹奏楽団や市民楽団は、愛国行事や出征兵士の壮行式などに動員され、音楽が国家と戦意高揚の象徴として機能していた。

アジア太平洋戦争期における日本の音楽制度の変容は、山田耕筰の音楽報国隊(音楽奉公隊)といった専門家組織にとどまるものではなかった。 全国各地の学校吹奏楽部、青年オーケストラ、市民合唱団にまで軍隊式の訓練体系が導入され、陸軍軍楽の伝統を踏まえたレパートリーが採用された。 これらの団体は行進曲や国歌を演奏し、士気を鼓舞するとともに、国家への集団的忠誠を音楽によって体現した。 東邦商業学校音楽部のこの写真は、まさにその時代の空気を映し出している。 若い音楽家たちは、芸術家であると同時に、音による戦時動員の象徴的な担い手として練習と演奏に臨んでいたのである。

After the War (1945–1965)

日本の敗戦後、山田耕筰は戦時中の指導的立場をめぐって批判を受けたが、日本の音楽文化の再建に身を投じた。 彼は人間主義的な精神を新たにし、作曲と指揮活動を再開する。 《思い出》《海の声》などの作品には、内省的で抒情的な表現への転換が見られる。 また、若い作曲家たちの育成に力を注ぎ、国際的な文化交流を推進し、戦後日本の音楽的アイデンティティの再定義に寄与した。 1965年に没するまでに、山田は日本の音楽を世界に届けた先駆者であり、また東西をつなぐ「和解者」として広く認められる存在となっていた。

山田耕筰の遺産は、カーネギーホールをはじめ世界の舞台に今も息づいている。 それは、日本の音楽に初めて交響的な声を与え、国の響きを世界へと届けた音楽家としての永続的な証である。

このNHKアーカイブによる映像伝記は、日本を代表する作曲家・指揮者、山田耕筰(1886–1965)の生涯と業績をたどるものである。 東京音楽学校での学生時代から、ベルリン留学を経て交響作曲家として成長し、ニューヨーク・カーネギーホールで日本人として初めて指揮台に立った歴史的瞬間、さらに戦時下の活動と戦後の文化的指導者としての歩みまでを描く。 貴重な映像資料、記録写真、関係者の証言を通じて、近代日本音楽の形成における山田の役割と、音・芸術・外交を通して東西を架橋しようとしたその生涯が明らかにされる。

参考文献

YouTube「山田耕筰:交響曲ヘ長調《勝鬨と平和》」 演奏:日本フィルハーモニー交響楽団 配信:Classical Music Channel(2019年) https://www.youtube.com/watch?v=sY7He5w

YouTube「長唄交響曲《鶴亀》(1934)」 配信:Classical Music Channel(2019年) https://www.youtube.com/watch?v=eEou_EdZp-U.

アメリカ議会図書館・プリント写真部門 《山田耕筰肖像》(1918–1919) https://tile.loc.gov/storage-services/service/pnp/ggbain/27600/27699v.jpg

ウィキペディア日本語版「山田耕筰」 最終更新:2025年9月 https://ja.wikipedia.org/wiki/山田耕筰

Pacun, David. “Thus We Cultivate Our Own World and Thus We Share: Kōsaku Yamada and the Modern Japanese Symphony.” 『American Music』第24巻第1号(2006年春):67–94頁。 イリノイ大学出版局。 https://scholarlypublishingcollective.org/uip/am/article-abstract/24/1/67/261469

東京藝術大学アーカイブセンター 《若き日の狂詩曲》 https://archive.geidai.ac.jp/en/8157

栃木県立美術館 《山田耕筰展》 https://www.art.pref.tochigi.lg.jp/exhibition/t200111/index.html

NHKアーカイブス「山田耕筰――交響曲や長唄交響曲などを作曲」 https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250124_00000