ニューヨークの日系アメリカ人の歴史は長らく見過ごされてきたが、その歩みは困難、不正義、希望に満ちている。初期の苦闘に始まり、戦時中の強制収容によって傷を深め、民主主義、教育、コミュニティ再建への新たな挑戦へと展開していく道のりをたどる。
物語は、ニューヨークで生活基盤を築いた一世(最初の移民世代)から始まる。第二次世界大戦中、忠誠心を疑われた多くの一世が証拠もなくエリス島に拘留された。隔離、不安、そして帰属を望んだ国からの裏切りに直面する。収容は、東海岸における日系アメリカ人にとって大きな亀裂となり、アメリカの理想との広範な対決への幕開けとなる。
20世紀初頭、ニューヨークの日系一世を中心とするコミュニティは、実業家、外交官、商人、産業労働者、企業経営者、家事労働者、芸術家、作家など、多様な専門職で構成されていた。1930年代後半に戦争が激化すると、日系企業はニューヨークの事務所を閉鎖し始め、多くの日系人労働者とその家族は、深刻化する日本とアメリカの敵対関係を避けるため、日本に帰国することになった。
1941年2月11日、野村吉三郎 は駐米大使に任命された。彼の主な任務は、当時アメリカの国務長官であったコーデル・ハルと、日米間の戦争回避を目的とした外交交渉を行うことであった。この会談が、その後の一連の会談の始まりであり、それは真珠湾攻撃まで続いた。ワシントンD.C.に到着後、野村はニューヨークでも外交活動に従事し、1941年3月3日には日本クラブで開かれた日本人会主催の会合に出席し、ニューヨークの著名な日系社会のリーダーたちと議論を交わした。
真珠湾攻撃の余波で、反日感情や偏見が広まったことを受け、1942年2月12日、フランクリン・ルーズベルト大統領によって大統領令9066号が発布された。この大統領令により、カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州、アリゾナ州の一部に居住していた12万人以上の日本人および日系アメリカ人が大量に強制退去させられ、収容された。これらの人々はその後、強制収容所に拘留、投獄された。敵性外国人管理プログラムとして総称される大統領布告第2525号、第2526号、第2527号は、危険な敵性外国人であるとされる日本国籍保有者を連邦政府が監視・拘留することを許可した。彼らは、銃器、無線機、カメラなど危険とみなされる物の所持を禁じられ、指定された立ち入り禁止区域に閉じ込められた。
国家安全保障に対する潜在的脅威とみなされ、抑留を勧告された人々は、エリス島で平均3ヶ月間収容された後、フォート・ミード、キャンプ・アプトン、クースキア、フォート・ミズーラ、サンタフェを含む様々な強制収容所に移送された。特筆すべきは、これらの人々の多くが、収容中に異なる収容所間を移動させられたことである。同時に、人種差別が蔓延していたため、多くの日本人・日系人が市内で雇用を確保する上で困難に直面した。1942年までに、ニューヨークで働く日本生まれの労働者の数は、約3,000人から約1,500人に減少した。残留者の大多数は独身労働者であった。
米国フレンズ奉仕団ニューヨーク事務所による日本人抑留報告書。AFSCアーカイブ提供。
村瀬九郎は、日系一世社会の著名な開業医であり、ニューヨークの日本クラブで野村吉三郎を歓迎する委員会の中心人物であった。真珠湾攻撃後、村瀬九郎は逮捕され、1942年7月にエリス島に送られた後、メリーランド州フォート・ミード、モンタナ州フォート・ミズーラ、ニューメキシコ州サンタフェの強制収容所に抑留された。最終的に村瀬は1945年9月に日本に送還された。
江見三朗医師 は、労働者階級や経済的に恵まれない環境にある多数の日本語話者の患者を診療する医師でもあった。エリス島で拘留された後、彼は自宅軟禁され、終戦までFBIに監視されていた。
1937年にニューヨーク仏教教会 を設立した関法善師は、エリス島に収容され、フォート・ミード、アイダホ州クースキアの重労働道路キャンプ、サンタフェなどの収容所に送られた。彼の配偶者である日系二世の妻(米国で生まれた日系移民の子)は教会を率い、避難民に精神的な援助を提供した。また、ヨーロッパ戦線に派遣される日系アメリカ人仏教徒兵士の集いの場となったり、第442歩兵連隊の兵士は、戦線に赴く前にこの教会に立ち寄り、生還を祈った。
芸術的、クリエイティブな職業に従事する個人も同様に拘束された。戦前、Prior to the war, 松井康夫 はニューヨークの著名な建築家であり、1939年のニューヨーク万国博覧会の日本館の設計に貢献し、また、とりわけエンパイア・ステート・ビルの設計で知られていた。しかし、エリス島で逮捕され、2ヶ月間拘留された後、彼の建築家としてのキャリアは予期せぬ方向へと進むことにな り、職を失い、連邦当局に毎月出頭しなければならず、第二次世界大戦が終結した1ヵ月後の1945年10月まで渡航を禁止された。
香西次郎 は、文筆家、編集者、ニューヨークの日本語新聞「ジャパニーズ・アメリカン」のオーナーであり、1920年代にはニューヨーク日本人会の会長でもあった。さらに、1939年のニューヨーク万国博覧会では、地元ボランティアの動員を指揮し、ニューヨークの日本人コミュニティから資金を確保することに成功するなど、極めて重要な役割を果たした。この時期の香西の活動は、皮肉にもエリス島とアプトン収容所での逮捕と抑留につながった。この経験により、彼は二世の妻と娘たちを連れて日本に帰国せざるを得なくなった。
著名な日本人庭師であり造園家であった塩田武雄,は、1914年から1915年にかけてブルックリン植物園の日本庭園「山水庭園」を設計したことで知られている。第二次世界大戦中、反日感情が噴出し、差別が蔓延したため、日本庭園は一時閉鎖された。塩田は逮捕され、エリス島に収容された後、サウス・カロライナ州の収容所に移され、1943年にこの世を去った。
ニューヨーク在住のアーティストで建築写真家の雨宮要生も、同様にエリス島で拘留された。日本美術の著名なコレクターであったネルソン・ロックフェラーが、彼の釈放を求める手紙を1941年に書いたが、雨宮は1945年にようやく釈放されるまで4年近く抑留された。
エリス島に収容された日本人ニューヨーカーの妻や子供たちは、相当な苦難に遭遇した。これらの家族の一部は、夫や父親が拘留されている間、自分たちを維持するのに十分な貯蓄を持っていた。多くの場合、これらの男性は家族の唯一の稼ぎ手であったため、生活が困窮し、悲惨な状況に陥った家族もあった。アメリカキリスト教会連合会は、戦時中の強制収容の影響を受けた日本人への支援に努め、男性家族がエリス島に連行された際に取り残された家族に食料と住居を提供した。