UNFORGOTTEN STORIES
忘れ得ぬニューヨーク物語: 1940 年代の日本人と日系アメリカ人
戦時下のニューヨークに暮らした日本人と日系アメリカ人の歴史は、西海岸で行われた大規模な強制退去と強制収容に比べ、これまで十分に語られてこなかった。軍事排除区域の外にあったニューヨークでも、日本人・日系人コミュニティは戦争によって大きな影響を受けた。
真珠湾攻撃後、連邦政府は敵性外国人管理プログラム(Enemy Alien Control Program)のもと、ニューヨークに暮らす日本国籍者を逮捕し、その多くをエリス島に拘留した。家族は収入源を失い、コミュニティの諸組織は指導者を失った。その一方で、西海岸の強制収容所から、教育の機会、仕事、住居を求めてニューヨークへ移ってきた日系アメリカ人もいた。教会、政治団体、救援組織、芸術家、学生、コミュニティの指導者たちは、こうした戦時下の変化と新たな課題に、それぞれの立場から取り組んだ。その方針や活動は一様ではなく、時には互いに対立することもあった。
「忘れ得ぬニューヨーク物語」では、相互に結びついた四つの歴史を取り上げる。エリス島での拘留、民主主義と戦時下の忠誠をめぐる組織活動、教育を目的とした転住、そしてニューヨークとその近隣地域におけるコミュニティの再建である。本展示は、これらの出来事を、苦難を乗り越えて成功に至る単純な物語として描くものではない。人種差別、監視、強制収容、強制的な移動、そして戦争という制約のなかで、人々がどのように行動したのかを考察する。
真珠湾攻撃以前のニューヨーク日本人社会
20世紀初頭のニューヨークには、外交官や企業勤務者、商人、工場や家庭で働く労働者、事業経営者、宗教指導者、芸術家、作家など、さまざまな職業や立場の日本人が暮らしていた。その多くは、連邦法により帰化によるアメリカ市民権の取得を認められていなかった一世であった。また、人数はまだ少なかったものの、アメリカ生まれの二世も成人する年齢に達しつつあった。
1930年代後半、日米関係が悪化するにつれ、一部の日本企業はニューヨークでの事業を縮小または閉鎖し、社員とその家族のなかには日本へ帰国する者もいた。ニューヨークに残った人々は、法的な立場や雇用、そしてニューヨーク社会における自らの立場について、次第に大きな不安を抱えるようになった。
野村吉三郎は、1941年2月11日に駐米大使としてワシントンに着任した。日米関係が悪化するなか、野村はコーデル・ハル国務長官との交渉にあたった。また、国際外交とニューヨークの日本人コミュニティの諸組織とのつながりが、明確な形で現れた。
翌月、3月3日、野村はニューヨークも訪問し、ニューヨーク日本人会は、日本クラブで野村の歓迎会を開催した。この会には、野村大使と、ニューヨークの日本人実業界およびコミュニティ諸団体の指導者たちが集まったが、それから1年も経たないうちに、これらの団体の多くは活動を停止するか弱体化し、その指導者の一部は連邦政府によって拘束されることになる。
ニューヨークにおける「敵性外国人」の拘留
1941年12月7日の真珠湾攻撃を受けて発令された大統領布告第2525号は、「敵性外国人」とみなされた日本国籍者に対し、さまざまな制限を課した。連邦捜査官は、宗教指導者、実業家、ジャーナリスト、専門職に就く人々など、連邦政府が安全保障上の潜在的な脅威とみなした者を逮捕した。日本人移民は法律によって帰化資格を認められていなかったため、アメリカに長年暮らしていても、一世が「敵性外国人」に分類されることを免れることはできなかった。
これらの逮捕は、西海岸で行われた大規模な強制立ち退きとは、法的にも行政上も異なるものであった。1942年2月19日、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は大統領令9066号に署名した。この大統領令により、12万人を超える日系人が強制的に立ち退かされ、収容された。そのうち約3分の2はアメリカ市民であった。ニューヨークは西海岸の軍事排除区域の外にあったが、市内に暮らす日本国籍者も、監視や捜索、移動と財産に関する制限、逮捕、拘留の対象となった。
歴史学者アンナ・ペグラー=ゴードンは、米国国立公文書記録管理局(NARA)が所蔵する司法省記録「第二次世界大戦期日本人抑留者カード(World War II Japanese Internee Cards, 1941–1947)」などを調査し、戦時中、少なくとも440人の日本国籍者がエリス島に拘留されていたことを明らかにした。現存する記録によれば、そのうち女性は4人であった。また、アメリカ生まれで米国市民であった二世のナオエ・スズキ(Naoye Suzuki)もエリス島に拘留された。聴聞委員会は、それぞれの拘留者について、仮釈放、拘留の継続、司法省が管轄する別の施設への移送、または本国送還を勧告した。拘留者のなかには、連邦政府が承認した身元引受人のもとに釈放され、連邦当局への報告を義務づけられた者もいた。また、フォート・ミード(Fort Meade)、フォートミズーラ(Fort Missoula)、クースキア(Kooskia)、サンタフェ(Santa Fe)などの施設へ移送された者もいた。
エリス島は、西部に設けられた戦時転住局(War Relocation Authority、WRA)の強制収容所とは異なる役割を担っていた。エリス島は拘留と聴聞のための施設であり、ニューヨークに暮らす日本人は、釈放されるのか、別の施設へ移送されるのか、あるいは日本へ送還されるのかという決定をそこで待った。拘留が数週間から数か月という比較的短い期間であっても、その影響は本人だけでなく、家族の暮らしやコミュニティの諸組織にも及んだ。
関法善師:開教使不在となったニューヨーク仏教会
関法善師は、ニューヨーク仏教会の創設者で、エリス島に拘留された後、フォート・ミード(Fort Meade)、アイダホ州のクースキア道路作業収容所(Kooskia road camp)、サンタフェ(Santa Fe)へと移送された。関師の拘留により、恐怖と不安が広がるなかで彼を頼りとしていた信徒たちは、宗教的指導者を失った。
関師の不在中、妻のサトミは仏教会と信徒たちを支え、その活動の維持に尽力した。教会は精神的・社会的な支援を提供するとともに、ヨーロッパ戦線への派遣を控えた第442連隊戦闘団(442nd Regimental Combat Team)の隊員をはじめ、日系人兵士たちが集う場所となった。関師の事例は、拘留の影響が拘束された本人だけにとどまらなかったことを示している。それは、配偶者や子ども、信徒、そしてコミュニティの諸組織を頼りとしていた人々の暮らしにも変化をもたらした。
香西次郎:拘留、家族、そして日本への送還
香西次郎は、ジャーナリスト、編集者、発行人として、日本語新聞『The Japanese-American』を刊行していた。ニューヨーク日本人会の会長を務め、1939年ニューヨーク万国博覧会の日本館に対する地域の支援を取りまとめる活動にも携わった。真珠湾攻撃後、香西はエリス島とキャンプ・アプトン(Camp Upton)に拘留された。
その後、香西は、二世であった妻の文代と娘たちとともに日本へ送還された。一家の日本行きは、戦時下の拘留と本国送還をめぐる決定が、米国市民であった家族を含め、一家全員の将来を左右し得たことを示している。
連邦当局に拘束されたその他のニューヨーカー
拘留政策は、専門職やコミュニティ活動に携わる人々にも広く及んだ。医師の村瀬九郎は、連邦政府が管轄する複数の施設に拘留された後、1945年9月に日本へ送還された。江見三朗医師は、日本語を話す労働者層の患者を数多く診療していた。江見は一定の制限を課されたうえで釈放されたが、その後も連邦政府の監視下に置かれた。
建築家の松井康夫(1883–1962)はエリス島に拘留され、釈放後も連邦当局への定期的な報告と移動の制限を課された。ブルックリン植物園の日本庭園(Japanese Hill-and-Pond Garden)を設計した造園家の塩田武雄(1881–1943)は、エリス島からサウスカロライナ州の連邦政府管轄の収容施設へ移送された後、1943年に死去した。芸術家・建築写真家の雨宮要生(1888–1977)は、外部から釈放を求める働きかけがあったにもかかわらず、長期間にわたって拘留された。
ここに紹介した人々の経験を、同じ物語としてひとくくりにすることはできない。その経験は、市民権の有無、職業、家族をめぐる状況、聴聞委員会の決定、政府による分類によって異なっていた。しかし、これらの事例をあわせて見ることで、連邦政府による拘留が、ニューヨークの医療、宗教、文化、市民活動を支えてきた人々を、それぞれの役割やコミュニティから引き離したことがわかる。
米国フレンズ奉仕団ニューヨーク事務所による日本人抑留報告書。AFSCアーカイブ提供。
残された家族とコミュニティ
拘留者の多くは、一家の主な稼ぎ手であった。その配偶者や子どもたちは収入を失い、住居の不安定化や学業の中断に直面するとともに、離ればなれになった家族が釈放されるのか、別の施設へ移送されるのか、あるいは日本へ送還されるのかもわからない状況に置かれた。アメリカ・キリスト教会連合協議会(Federal Council of Churches of Christ in America)やアメリカフレンズ奉仕団(American Friends Service Committee)をはじめとする宗教団体や民間団体は、一部の家族に食料、住居、仕事を提供し、仮釈放に必要な身元引受けにも協力した。
拘留は、コミュニティの指導体制にも変化をもたらした。日本国籍者を代表していた戦前の諸団体は閉鎖されるか、活動の弱体化を余儀なくされた。その一方で、差別、雇用、公民権、戦時下の忠誠をめぐる問題、そして西海岸の強制収容所からニューヨークへ移ってきた日系アメリカ人の受け入れに取り組む新たな団体が生まれた。
真珠湾攻撃前後の組織的活動
『日米民主委員会(JACD)ニュースレター』第2巻第2号(1943年11月)。オクシデンタル大学図書館特別コレクション提供。
米国が参戦する以前から、ニューヨークでは政治活動や社会福祉活動を担う組織づくりが始まっていた。1940年8月、一世と二世の活動家、宗教指導者、芸術家、ジャーナリストらは、東部日本人共護委員会(Committee for the Democratic Treatment of Japanese Residents in the Eastern States)を結成した。ニューヨーク日本人メソジスト教会の牧師であった赤松三郎牧師(1904–1981)が、初代委員長に就任した。
委員会は、日本企業が米国での事業を縮小したことで職を失った人々を支援し、救援活動について教会や政府機関に働きかけるとともに、地域の社会福祉上のニーズを調査し、差別に抗議した。真珠湾攻撃後、ニューヨーク日本総領事館は閉鎖され、連邦当局は赤松をはじめとする一世の指導者たちを逮捕した。
約150人が参加した公開集会を経て、日米民主委員会(Japanese American Committee for Democracy、JACD)が結成された。トーマス・コムロが委員長に選出され、6つの小委員会が設置されるとともに、ニュースレターの発行が始まった。顧問委員会には、パール・S・バック、アルバート・アインシュタイン、フランツ・ボアズらが名を連ねた。
日米民主委員会(JACD)は、困難で、時には矛盾をはらむ政治状況のなかで活動した。人種差別に抗議し、日系アメリカ人の雇用、住居、再定住を支援する一方で、米国の戦争遂行を公に支持し、日本の軍国主義を非難した。こうした立場は反ファシズムの信念に基づくものであったが、同時に、日本人の血を引く人々が米国への忠誠を示すよう強い圧力にさらされるなかで形成されたものでもあった。
ノリ・イケダ・ラファティと指導体制の変化
1943年初頭、ノリ・イケダ・ラファティは日米民主委員会(JACD)初の有給職員となった。カリフォルニア出身の二世活動家であったラファティがニューヨークに移った当時、強制収容所を出て東部へ移る日系アメリカ人が増えつつあった。ラファティの活動により、JACDの雇用、住居、政治、社会活動に関する支援事業は拡充され、ほかの二世活動家たちもニューヨークへ移るようになった。
1944年までに、JACDの指導体制は変化した。一世の理事が辞任し、二世の会員がより大きな役割を担うようになった。この移行は、ニューヨークの日本人・日系人社会全体に生じていた、より大きな変化を反映していた。戦前は主に日本人移民によって構成されていたコミュニティに、西海岸から移ってきたアメリカ生まれの日系アメリカ人が、次第に大きな影響を与えるようになった。
ラファティの歩みは、後年の名声ではなく、組織を支えた実務にこの歴史の焦点を当てるものである。日米民主委員会(JACD)の活動は、手紙に返事を書き、住居や仕事を探し、ニュースレターを編集し、会合を運営し、新たにニューヨークへ来た人々を既存の支援ネットワークへとつないだ人々によって支えられていた。
芸術家、プロパガンダ、戦時下の選択
芸術家たちによる活動は、JACDの取り組みのなかでも、特に広く社会の目に触れるものだった。レオ・アミノ(1911–1989)、国吉康雄(1889–1953)、イサム・ノグチ(1904–1988)らは、JACD芸術評議会(Arts Council of Japanese Americans for Democracy)に参加した。
1941年12月、レオ・アミノ、国吉康雄、保忠蔵、イサム・ノグチ、トーマス永井、門脇ロイ、鈴木盛(1899–1995)、田川文治は、日本の軍国主義を非難する声明に署名した。八島太郎(1908–1994)はその後、戦時情報局(OWI)と戦略情報局(OSS)のために視覚資料を制作した。
国吉は、連合国を支持するプロパガンダや戦時国債の宣伝画を制作し、戦時情報局(OWI)のために日本語によるラジオ演説を行った。保忠蔵(1888–1975)は、東南アジアで戦略情報局(OSS)の任務に従事した。ニューヨークに居住し、西海岸の排除命令の対象ではなかったノグチは、芸術・コミュニティプログラムを実施しようと、自らポストン強制収容所に入った。しかし、ほどなく収容所当局による制約に直面し、数カ月後にニューヨークへ戻った。
これらの芸術家たちが、戦時下に同じ経験を共有していたわけではない。それぞれの行動には、政治的信念、職業上の立場や機会、個人の来歴、そして日本にルーツをもつ人々に課された制約が反映されていた。その多くは、日本の軍国主義とファシズムに自らの信念から反対し、民主主義と連合国側の勝利を支持していた。したがって、彼らの作品を単に「反戦芸術」と呼ぶだけでは、その政治的立場を十分に捉えることはできない。作品の多くは、彼ら自身の政治的信念に基づくと同時に、アメリカの戦時情報体制のなかで制作された、明確な連合国支持のプロパガンダでもあった。
生活再建支援
建築家の山崎實(1912–1986)は、JACD芸術評議会の副議長を務めるとともに、ニューヨーク日系諸団体生活再建協議会(Resettlement Council of Japanese American Organizations in New York)の議長を務めた。同協議会は、西海岸の強制収容所を離れた日系アメリカ人を支援した。その多くは、安定した住居や仕事、頼ることのできる地域とのつながりを持たないまま、ニューヨークに到着していた。
1944年、山崎は、地元住民や公職者からの反対があるなか、ニューヨークに新たに到着した日系アメリカ人のために、ブルックリンでのホステル開設を支援した。この戦時中の活動は、山崎のあまり知られていない一面を示している。建築家として国際的な評価を得る以前、山崎は、強制移動を経験した日系アメリカ人がニューヨークで新たな生活を築くのを支えていた。
1944年2月11日、「民主主義のための日系アメリカ人芸術評議会」会長、国吉康雄の声明。スミソニアン協会公文書館提供。
女性たちの発信
女性たちは、政治教育や社会への情報発信においても重要な役割を果たした。一世のジャーナリスト、フェミニストであり、『憩なき波』(1940年)の著者でもある石垣綾子は、1942年に戦時情報局(OWI)で働き始めた。石垣と夫で画家の石垣栄太郎(1893–1958)は、日本の軍国主義に反対していたにもかかわらず、敵性外国人として行動を制限され、失職も経験した。
キミ・ゲンゴ・タガワは、YWCAの青少年プログラム、ガール・リザーブズの刊行物『The Bookshelf』に物語を寄稿した。架空の人物同士の対話を通して、移民、アメリカと日本の文化、人種、そして帰属意識について若い読者に伝えた。石垣とタガワの活動は、戦時下の政治的な取り組みが、執筆、宗教団体、教育、青少年プログラムを通じても行われていたことを示している。
JACDは、公民権の擁護を掲げながら、アメリカ政府の戦時政策を支持するという矛盾を、最後まで解消できなかった。だからこそ、その歴史は重要である。アメリカが日本にルーツをもつ人々を収容するさなか、ニューヨークの日系人たちは、人種差別にどう立ち向かい、強制移動させられた人々をどう支え、民主主義社会の一員として自らの権利をどう主張するかを議論し、模索していた。
収容所を出て、学びの場へ
アメリカの挑戦:日系アメリカ人学生の移住問題について。1942年。アメリカ・フレンズ奉仕団 (AFSC)提供。
日系アメリカ人の西海岸からの強制立ち退きにより、何千人もの学生が学業の中断を余儀なくされた。1942年3月、バークレーの教育関係者と地域の指導者たちは委員会を設立し、約75人の学生が軍の排除区域外にある大学や教育機関へ転学できるよう支援した。同年5月、アメリカ・フレンズ奉仕団(AFSC)のクラレンス・ピケットらにより、全米日系アメリカ人学生転住協議会(National Japanese American Student Relocation Council)が設立された。
協議会は、日系アメリカ人学生の受け入れに応じる大学を探し、資金を集め、仮収容所や強制収容所を出る許可を得るために政府機関と交渉した。大学への入学が認められても、それだけで収容所から出られるわけではなかった。学生たちはさらに、政府による身元審査、移動の制限、学費の負担、住居不足、教育機関側の偏見にも直面した。
この制度は、学生が収容所を出るための重要な道を開いたが、それによって強制立ち退きの不当性が解消されたわけではなかった。学生たちはしばしば、家族を収容所に残して出なければならず、彼らに認められた自由も、あくまで条件付きのものだった。
全米日系米国人学生転住審議会(NJASRC)発行の「日系アメリカ人学生の移転をいかに支援するか」1943年。アメリカ・フレンズ奉仕団 (AFSC )提供。
松本亨:収容所、教会、大学をつなぐ
松本亨(1913–1979)は、エリス島、キャンプ・アプトン、フォート・ミードに拘留された。1942年末に釈放された後、プロテスタント系の教会諸団体が支援する日系アメリカ人生活再建委員会(Committee on Resettlement of Japanese Americans)で、ジョージ・E・ランドクイストの補佐を務めた。
松本は、日本人学生キリスト教協会(Japanese Student Christian Association)の総主事を務め、世界学生奉仕基金(World Student Service Fund)とも協力した。ニューヨークでは、日系アメリカ人キリスト教協会(Japanese American Christian Association)も、こうしたキリスト教系支援ネットワークの一翼を担った。松本は強制収容所を訪れ、資金を集め、学生たちに収容所外で学ぶ道を求めるよう働きかけた。その活動は、学生の転学・転住支援と、教会を基盤とする就職や住居の確保をはじめとした生活再建支援とを結びつけるものだった。
松本の足取りは、東海岸の拘留体制、全米規模の宗教団体のネットワーク、強制収容所、そしてニューヨークの教育機関を結んでいた。その活動は、宗教団体や教育機関が、日系アメリカ人が収容生活から新たな土地での生活再建へと移る困難な過程を、どのように支えたかを示している。松本の回想録『A Brother Is a Stranger』(1946年)は、戦時中の拘留体験と、それがもたらした影響を伝える、早い時期に刊行された記録の一つである。
ニューヨークに到着した学生たち
ニューヨーク州各地の教育機関が、学生の転学・転住支援に参加した。アルフレッド大学、バード大学、バーナード・カレッジ、コーネル大学、ハンター・カレッジ、ニューヨーク大学、プラット・インスティテュート、ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ、ティーチャーズ・カレッジ、ユニオン神学校、ロチェスター大学、ヴァッサー大学のほか、専門学校や中等教育機関も学生を受け入れた。ロバート・W・オブライエンが発表した戦時中の調査によると、1942年から1946年までに、ニューヨークへ移った学生は320人を超え、東海岸全体では500人を超えた。
学生たちの経験は、教室の中だけにとどまらなかった。住居や仕事を探し、教会や市民団体に加わるなかで、反日差別が存在する一方、人種や信仰の違いを越えた連携も進められていたニューヨークの現実に向き合った。
ニューヨーク大学は、学問の自由と人種的・宗教的寛容を擁護したハリー・ウッドバーン・チェイス学長のもと、十数人の日系アメリカ人学生を受け入れた。のちにミツエ・ヤマダとして知られるミツエ・ヤスタケも、戦時中に同大学で学んだ。彼女はその後、詩人、エッセイスト、フェミニスト、公民権運動家として活動し、収容体験や日系アメリカ人としてのアイデンティティを作品に描いた。
戦時下の巡回美術展
1945年5月、一世と二世の芸術家による絵画・彫刻展が、ニューブランズウィックのニュージャージー女子大学で開幕した。戦時転住局(WRA)が強制収容所を指して用いた「転住事業地区(relocation projects)」で当時暮らしていた10人と、東部で長年にわたり知られていた16人の芸術家の作品が一堂に展示された。ニューブランズウィックでの展示には1,000人を超える観客が訪れ、その後、展覧会は各地を巡回した。
この展覧会は、ニューヨーク日本人教会委員会(New York Church Committee for Japanese Americans)、アメリカ・バプテスト国内伝道協会(American Baptist Home Missions Society)、日系アメリカ人市民同盟(Japanese American Citizens League, JACL)、アメリカ・キリスト教会連邦協議会の日本人再定住委員会(Committee for Resettlement of Japanese Americans of the Federal Council of Churches of Christ in America)、ニューヨーク日系人団体再定住協議会(Resettlement Council of Japanese American Organizations in New York City)など、複数の宗教団体および日系アメリカ人団体の支援を受けて開催されました。 また、戦時転住局(War Relocation Authority, WRA)のニューアーク事務所が展覧会の開催準備に協力しました。ニュージャージー女子大学(New Jersey College for Women)での展示後、再定住協議会はニューヨークでの展示会場を探し、JACLニューヨーク支部は他都市への巡回に向けた計画づくりに協力しました。
教育、仕事、創作活動
教育と仕事は、しばしば並行して進められた。ユリコ・キクチは、ギラ・リバー強制収容所で子どもたちにダンスを教えていた。東部へ移った後は、マーサ・グラハム舞踊学校で学びながら、マンハッタンの縫製業界で働いた。彼女の経験は、家族が離散したまま、あるいは収容所に残されたままの状況で、専門的な訓練を続けると同時に、生計を立てなければならなかった若者たちの厳しい現実を示している。
ヨシコ・ウチダは、強制収容所から東海岸へ移った学生の一人だった。戦時下の学生転住制度を利用してスミス大学で学んだ後、フィラデルフィアのクエーカー系学校で数年間教え、その後ニューヨークへ移った。ウチダは、収容体験がもたらした影響を率直に語り、日系アメリカ人の経験を主題とする著作を発表する重要な作家となった。また、強制収容所から移ってきたヘンリー・スギモトとも協働した。スギモトは、日系アメリカ人の少女を主人公とするウチダの児童書の一冊、『New Friends for Susan』の挿絵を手がけた。
学生転住制度は、強制立ち退きや家族の離散、住居や生活基盤の喪失を埋め合わせるものではなかった。しかし、この制度を通じて、新しい世代の日系アメリカ人がニューヨークへ移ることになった。彼らの存在は、戦時中から戦後にかけて、ニューヨークの諸組織、芸術家のネットワーク、出版活動、政治団体のあり方を変えていった。
ニューヨークにおけるコミュニティの再建
1943年以降、戦時転住局(WRA)は、日系アメリカ人に対し、西海岸の立入禁止区域外にある承認された地域へ収容所を出て移住することを、より積極的に奨励するようになった。退所許可を得るには政府の承認が必要であり、通常は就労または就学の計画を示さなければならなかった。この審査は身元調査と結びついており、収容所内で実施され、大きな論争を招いた「忠誠登録」とも関係していた。収容所を出ることができても、失った財産を取り戻せたわけではなく、誰もが離ればなれになった家族と再会できたわけでも、差別がなくなったわけでもなかった。
ニューヨークは、進学や専門職への復帰、新たな仕事を求めて収容所を出た人々にとって、重要な移住先となった。そこには戦前から一世のコミュニティが築かれていたが、その家族、事業、教会、各種団体もまた、戦時下の拘留によって大きな打撃を受けていた。したがって、ニューヨークでのコミュニティ再建は、戦前から続く移民社会の存続と、西海岸から故郷を追われた日系アメリカ人の到来という、二つの歴史が交わる過程でもあった。
ニューヨークでの生活再建
1944年5月、ブレザレン教会は、収容所を出た日系アメリカ人に一時的な住居を提供するため、ブルックリン・ハイツのクリントン・ストリート168番地にホステルを開設した。一度に滞在できたのは約25人にすぎなかったが、1946年春に閉鎖されるまでに、約1,600人がこの施設を利用した。1945年10月には、マンハッタンの東102丁目58番地に、より規模の大きいホステルが開設された。新たに移住した人々が定住先を見つけるにつれ、日本人メソジスト教会に近い西106丁目から110丁目周辺と、別の日系人教会が活動を始めたインウッドに、小規模な日系人コミュニティが形成されていった。
新たに移住してきた人々は、行政と民間の双方で差別に直面した。ニューヨーク市長フィオレロ・ラガーディアは、ブルックリンで計画されていたホステルの開設に公然と反対し、収容所を出た日系アメリカ人はニューヨーク市では歓迎されないと表明した。宗教団体や民間支援機関、そしてニューヨークに戦前から暮らしていた日本人コミュニティの人々が、住居や仕事の紹介をはじめとする支援を行う一方で、住宅や雇用をめぐる差別は続いた。
コミュニティ組織の再建
ニューヨークの日本人コミュニティを代表する組織の起源は、日本人共済会にさかのぼる。同会は1907年、高見豊彦博士によって設立された。1914年、高見博士、高峰譲吉博士らコミュニティの指導者たちは、同会を紐育日本人会として再編した。
同会は、多くの指導者が拘留または日本へ送還されたことにより、第二次世界大戦中に活動を停止した。戦後に再建されると、当初は日本への救援活動に力を注いだ。コミュニティの人々は、アジア救済公認団体(Licensed Agencies for Relief in Asia、LARA)と連携する諸団体を通じて、食料や衣類、寄付金を集めた。
地域社会のニーズが変化するなか、同会は、日系人福祉協会(1946~1952年)と連携して活動した。同協会の設立には、かつて拘留された赤松三郎牧師や江見三郎医師のほか、高見正彦医師をはじめとする二世の指導者たちも携わった。1952年、両団体は合併し、ニューヨーク日系人会が発足した。この合併は、さまざまな地域や世代の日本人移民と日系アメリカ人から成る、戦後のコミュニティの姿を反映していた。
1952年移民国籍法によって、人種を理由に日本人移民の帰化を認めてこなかった法的障壁が撤廃された。これにより、要件を満たす一世にも米国市民権取得への道が開かれた。しかし、それまでの数十年間、帰化を認められなかった一世は、戦時下でとりわけ弱い立場に置かれていた。
貴田愛作:新聞、救援活動、コミュニティの記憶
貴田愛作(1905~1996年)は、1932年にニューヨークへ移住した。真珠湾攻撃後に逮捕され、エリス島に拘留された。その後釈放され、戦略情報局(Office of Strategic Services、OSS)で日本語講師として勤務した。
1945年12月、貴田は創刊されたばかりの『北米新報』に加わった。新聞界での経験はなかったが、1949年に編集長、1952年に主幹となった。貴田は紙面を通じて、戦後の日本で深刻な困窮に直面していた人々への支援を訴え、自らもコミュニティの救援活動に参加した。1945年9月に結成された日本救援準備委員会は、1946年に米国政府から活動の認可を受け、日本救援紐育委員会として正式に組織された。同委員会は、アジア救援公認団体(LARA)と連携し、日本への救援活動に取り組んだ。
『北米新報』は、『ニューヨーク便覧 1948~1949年版』も刊行した。同便覧には、戦時中の諸団体、第442連隊戦闘団、コミュニティの各種機関、ニューヨークの日系社会で活躍した著名人の略歴などが収録された。『北米新報』は、日々のニュースとともに団体や個人の活動を記録することで、離散し変化を続けるコミュニティが、自らの歩みを後世に残す役割を果たした。
『北米新報』の寄稿者の一人に、労働運動・政治活動家のカール・イチロー・アキヤがいた。アキヤはトパーズ強制収容所に収容されたのち釈放され、ミシガン大学に設けられた米陸軍の日本語学校で教鞭を執った。1946年にニューヨークへ移住し、日系アメリカ人市民同盟(JACL)、家具労働者組合、アメリカ共産党などに参加した。『北米新報』へのアキヤの寄稿は、戦後ニューヨークの日系アメリカ人社会を形づくった、政治、労働運動、コミュニティ活動にまたがる多様なネットワークを示している。
芸術、証言、戦後の公共文化
戦時中に文化団体や政治団体に参加していた芸術家たちは、戦後も活動を続けた。1948年、ホイットニー美術館は国吉康雄の回顧展を開催した。これは、同館が存命中の芸術家を対象に開催した初の回顧展だった。この栄誉は、国吉がアメリカ美術を代表する芸術家として評価されながら、日本生まれであることを理由に法律上帰化を認められていなかったという、際立った矛盾を浮き彫りにした。1952年移民国籍法によって、この人種に基づく法的障壁はようやく撤廃されたが、国吉は米国市民権を取得することなく、1953年に亡くなった。
ミネ・オクボ(1912~2001年)は、『フォーチュン』誌から依頼されたイラストを制作するため、トパーズ強制収容所を出てニューヨークへ移住した。オクボは、タンフォランとトパーズでの収容生活を記録した数千点に及ぶ絵を制作していた。1946年には、簡潔な文章と絵を組み合わせ、二世の被収容者の視点から強制収容を描いた『Citizen 13660(市民13660号)』を出版した。オクボの作品は、収容を経験した、生の記録を、戦後のアメリカ社会に広く伝える役割を果たした。
コミュニティの継承
戦時中の強制移動とニューヨークへの移住を通じて築かれたつながりは、1940年代以降も続いた。二世の活動家カズ・イイジマ(1918–2007)は、タンフォラン仮収容所とトパーズ強制収容所に収容されたのち、1943年にニューヨークへ移り、日系アメリカ人民主委員会で活動した。二世の芸術家・活動家シズコ・「ミン」・マツダ(1911–2003)は、戦時下の大規模な強制立ち退きが始まる前にカリフォルニアからユタ州へ移っており、1940年代にはニューヨークで同委員会の活動に加わった。サンタアニタ仮収容所とジェローム強制収容所に収容されていたユリ・コウチヤマ(1921–2014)は、1946年初頭、ウィリアム・「ビル」・コウチヤマと結婚するためニューヨークへ移った。二世のビルは、自身もトパーズ強制収容所に収容された経験をもち、第442連隊戦闘団の退役軍人だった。
こうしたつながりは、その後の社会運動の基盤となった。イイジマとマツダは1969年、ニューヨークでアジアン・アメリカンズ・フォー・アクション(Asian Americans for Action)を設立した。ユリとビル・コウチヤマは地域活動や公民権運動に携わり、ユリは黒人解放運動、政治囚支援運動、反戦運動、日系アメリカ人の補償要求運動において中心的な役割を担った。
戦時下のニューヨークで育ったスキ・テラダ・ポーツ(1934– )は、その後、公教育や医療へのアクセスの向上、HIV/エイズの影響を受ける有色人種コミュニティの支援に尽力した。
戦時下の強制移動がもたらした影響は、ニューヨークの公共空間やコミュニティ組織にも表れた。マンザナー強制収容所に収容されていたフランク・マサオ・オカムラ(1911–2006)は、1947年から、塩田武雄が設計し1915年に完成したブルックリン植物園の日本庭園を修復し、その維持管理に携わった。ジョージ・ユザワ(1915–2011)は、ニューヨークの花店での職を得たことにより、1943年9月にアマチ強制収容所からの退所を認められた。その後、家族が経営する花店に加わり、ニューヨーク日系人会の副会長、理事、委員長を歴任した。
湯沢は、クイーンズにあるマウント・オリベット日本人墓地の保存と修復にも尽力した。この墓地は、ニューヨークで亡くなり、埋葬を手配する家族のいない日本人移民のために、高見豊彦医師が創設した日本人共済会によって1912年に購入された。連邦政府は1943年、日本人墓地の区画を差し押さえ、競売にかけた。湯沢による墓地の保存と墓参会への支援は、戦前に日系コミュニティの基盤を築いた一世世代と、戦後の二世コミュニティを結びつけるものとなった。1982年には、湯沢とニューヨーク日系人会が、ブルックリン植物園の桜祭り「サクラ・マツリ(Sakura Matsuri)」の創設にも尽力した。
戦後のニューヨークの日系社会は、真珠湾攻撃以前のコミュニティを単に復元したものではなかった。拘留、強制立ち退き、軍務、移住、そして生活再建を経て、新たに形づくられたコミュニティだった。戦争によって失われたものを取り戻すことはできなかった。それでも、ニューヨークに暮らす日本人と日系アメリカ人は、組織を再建し、記録を保存し、庭園や墓地を守り、社会正義を求める運動を形づくることによって、今日へと続くコミュニティを築き、先人たちの記憶を未来へとつないだ。
参考文献
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クレジット
This exhibition was organized by the Digital Museum of the History of Japanese in New York.
This exhibition was made possible with support from:
The J.C.C. Fund
The Consulate General of Japan in New York
The SMBC Global Foundation
The UCLA Asian American Studies Center and the Aratani C.A.R.E. Award
Project Manager: Mac Gill
Curator: Yuka Yokoyama
Exhibition Advisors
Greg Robinson, Professor of History, Université du Québec à Montréal
Genji Amino, Director, Leo Amino Estate
Shun Ito, Assistant Professor, Graduate School of Education, Okayama University
Special Thanks
Michiyo Noda, Japanese American Association of New York
Eiko Aono and Akemi Takeda, JAA Archive Volunteers
Jamie Henricks, Archivist, Japanese American National Museum
Hoshina Seki, New York Buddhist Church
Kathryn Bannai, Board Member, Japanese American National Museum
Lance B. Stuart, Donor of the Jiro Kozai Family Collection
Materials appearing in this exhibition are provided by:
Japanese American Association of New York
Lutnick Library, Haverford College
Seabrook Educational and Cultural Center
Rutgers University Libraries
U.S. National Archives and Records Administration
Discover Nikkei
Densho
Japanese American National Museum
New York Public Library
The Bancroft Library, University of California, Berkeley
Leo Amino Estate
American Friends Service Committee
Additional credits appear in the individual image captions.