THE FLOATING WORLD OF NEW YORK
ニューヨークの浮世:20世紀前半の日本美術、コミュニティと社会
「日本美術」という言葉の二つの意味
1917年3月、山中商会のニューヨーク画廊(Yamanaka Galleries)は、ニューヨークに暮らす若い日本人美術家たちによる絵画、素描、写真を展示した。これは当時としては異例の試みだった。山中商会は、主に日本の古美術品を収集家や美術館に販売することで知られていたからである。
この展覧会は、「日本美術」という言葉が持つ二つの意味を、同じ画廊のなかに並置した。一つは日本の過去に由来する美術品を指し、もう一つは近代都市ニューヨークに暮らす日本人が、同時代に制作していた美術を指していた。
美術品収集と日本美術市場
多くのアメリカ人収集家にとって、「日本美術」とは、屏風、陶磁器、漆工品、木版画、彫刻、甲冑、装飾美術品などを意味していた。美術商はこうした作品を選び出して解説し、その価値を定めるとともに、アメリカの購入者がそれらをどのように理解するかにも影響を与えた。山中商会は、そのなかでも特に大きな影響力を持った美術商の一つだった。ニューヨーク支店は、収集家やメトロポリタン美術館をはじめとする文化機関と緊密な関係を築いた。 こうした美術品の移動は、その来歴についての問いも投げかける。作品はどのような経緯で寺院や個人コレクションを離れたのか。そして、富や帝国の力は、国際美術市場の形成にどのような影響を及ぼしたのか。1
ジャポニスムと変化する日本の国際的地位
日本美術に対する欧米の関心は、20世紀よりはるか以前に始まっていた。日本が開国し、対外貿易を開始すると、日本の版画や工芸品はヨーロッパとアメリカに広く流通するようになった。美術家やデザイナーは、それらに見られる非対称の構図、平面的な空間表現、文様、独特な視点を研究した。こうした日本美術への強い関心は、「ジャポニスム」と呼ばれるようになった。
1904年から1905年の日露戦争における日本の対ロシア勝利は、日本美術への関心に新たな政治的意味を与えた。日本は、近代的な軍事大国であり、帝国でもあると次第に認識されるようになった。勝利は日本に国際的な威信をもたらした一方、太平洋をめぐる競争に対するアメリカの警戒感も高めた。日本の政治指導者、実業家、美術家たちは、美術と建築を通して、日本が洗練された近代国家であり、国際社会において対等な地位を得るにふさわしい国であることを示そうとした。2
牧野克次と松楓殿
1906年に渡米した二人の美術家は、このような文化交流が実際にどのように展開したかを示している。牧野克次は、すでに画家、デザイナー、教育者として実績を積んだうえで渡米した。ニューヨークでは水彩画を教えるとともに、市内の日本人コミュニティに関わる建築の室内意匠にも携わった。
牧野による松楓殿の仕事は、日本の美術的伝統がアメリカという環境のなかでどのように応用されたかを示している。松楓殿は、もともと1904年のセントルイス万国博覧会のために建設され、その後、ニューヨーク州フォレストバーグにあった高峰譲吉の別邸へ移築された。牧野はその後、内部の一部を設計し、壁画や天井画を制作した。現存する部材の一部は、現在、高岡市で再現展示されており、松と楓を描いた天井画や、能《羽衣》の一場面を表した金箔地の壁画などが含まれている。牧野は、日本の主題と装飾表現を、油彩の材料や技法と組み合わせた。こうして生まれた室内は、単なる伝統的な日本絵画の再現でも、西洋美術の模倣でもなかった。それは、アメリカの環境のなかで生み出された、新しい日本的室内装飾であった。3
霜鳥之彦と商業美術
京都高等工芸学校を卒業した霜鳥之彦は、牧野とともにニューヨークへ渡った。油彩画とデザインを学び、水彩画を出品するとともに、アメリカの風景や海岸を題材とした作品を描いた。その後、アメリカ自然史博物館に勤務し、素描力や観察力、色彩感覚を生かして海洋生物の模型制作に携わった。博物館教育、広告、工業デザインに関わった経験は、のちに日本で教育者となり、商業美術の普及を推進した彼の活動に影響を与えた。
牧野と霜鳥の活動は、日本人美術家が個人のアトリエだけを仕事の場としていたのではないことを示している。二人は、絵画、建築、科学展示、教育、商業デザインといった領域を横断して活動した。その歩みは、「純粋美術」と、実用のために制作された美術とを分ける境界そのものを問い直す。
ニューヨークの美術界へ
1917年に山中商会のニューヨーク画廊で開かれた展覧会は、もう一つの変化を明らかにした。当時活動していた日本人美術家たちは、単に日本の伝統を代表する存在としてではなく、ニューヨークの同時代美術界に参加する一人ひとりの美術家として認められることを求めていた。⁴
その美術界は、急速に変化していた。1913年のアーモリー・ショーは、ヨーロッパとアメリカにおけるモダニズムの新たな表現を、アメリカの観衆に突きつけた。1917年には、マルセル・デュシャンが、市販の男性用小便器を美術作品として出品した《泉》によって、何を美術として展示できるかを決定する美術機関の権威に異議を唱えた。
日本人美術家たちは、それぞれ異なる道筋をたどりながら、変化しつつあったニューヨークの美術界に加わっていった。1901年に和歌山から渡米した浜地清松は、ボストンで美術を学んだ後ニューヨークに移り、デザインの仕事に携わりながら絵画制作を続けた。1917年と1918年には紐育日本美術協会の展覧会に出品し、国吉康雄、清水登之、石垣栄太郎らとも交流を深めた。ニューヨーク時代の作品には、1918年に出品されたと考えられる《五番街》があり、近代都市ニューヨークへの浜地の関心を示している。⁵
浜地は、ニューヨークの美術界へそれぞれ異なる道を歩んだ日本生まれの美術家の一人だった。彼らは一つの流派や様式を形成していたわけではなく、「日本美術とはこうあるべきだ」という一つの考え方に当てはまるものでもなかった。無審査の公募展は、従来のアカデミーとは異なる発表の機会を提供したが、作品が展示されることが、必ずしも注目や販売、その後の評価につながるとは限らなかった。⁶
古田土雅堂:日本的な主題と近代ニューヨーク
雅堂の活動もまた、商業デザインと純粋美術の境界を越えるものだった。渡米後まもなく、松楓殿の室内を飾る絵画の制作に携わった。その後は森村ブラザースで輸出用陶磁器の装飾図案を手がけて生計を立てる一方、画家として独自の制作と展覧会への出品を続けた。
その題材は、日本の物語や着物姿の人物から、交通、家庭の室内、混雑するニューヨークの地下鉄まで、多岐にわたった。《雲》と《茸狩り》では、日本的なイメージが近代的な絵画表現の一部として取り入れられている。《地下鉄の雑踏》では、ニューヨークの混雑と人々の動きを、緻密に組み立てられた都市的構図へと変換した。近代的な美術家になることは、日本的な主題や文化的記憶を捨て去ることを意味しなかった。7
単一の流派や様式には収まらない美術家たち
したがって、「日本人美術家」とは、単一の流派や様式を示す言葉ではない。それは、移住、美術を通じた交流、そしてアメリカ社会が日本に与えたさまざまな意味によって、それぞれ異なるかたちで歩みを形づくられた人々を指している。
ニューヨークでは、日本の美術品が収集され、日本の視覚表現が借用され、日本文化が称賛される一方で、日本にルーツを持つ人々は人種的な「よそ者」として扱われ続けた。
NOTES
1. Ramona Handel-Bajema, Art Across Borders: Japanese Artists in the United States before World War II (Portland, OR: MerwinAsia, 2021); “Discovering Japanese Art: American Collectors and the Met,” Metropolitan Museum of Art, 2015, https://www.metmuseum.org/exhibitions/listings/2015/discovering-japanese-art; “Yamanaka & Co.: Early Pioneer of the Global Asian Art Trade,” Smithsonian National Museum of Asian Art, 2021, https://asia-archive.si.edu/research/scholarly-programs/hidden-networks/yamanaka-co-early-pioneer-of-the-global-asian-art-trade/.
2. “Discovering Japanese Art,” Metropolitan Museum of Art; “Treaty of Portsmouth and the Russo-Japanese War, 1904–1905,” Office of the Historian, U.S. Department of State, https://history.state.gov/milestones/1899-1913/portsmouth-treaty; Jon Thares Davidann, Cultural Diplomacy in U.S.-Japanese Relations, 1919–1941 (New York: Palgrave Macmillan, 2007).
3. “Makino Katsuji (1864–1942),” Digital Museum of the History of Japanese in New York, https://www.historyofjapaneseinny.org/artifacts/makino-katsuji-from-kyoto-to-new-york/; “Shōfūden,” Digital Museum of the History of Japanese in New York, https://www.historyofjapaneseinny.org/artifacts/shofuden/; “Shimotori Yukihiko (1884–1982),” Digital Museum of the History of Japanese in New York, https://www.historyofjapaneseinny.org/artifacts/yukihiko-shimotori/; “Shimotori Yukihiko,” Tokyo National Research Institute for Cultural Properties, https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10132.html; Tsumiki Wada, “Shimotori Yukihiko as a Design Researcher: Discourses on Design in the 1920s and 1930s,” Design Theory 82 (2023).
4. Annual Exhibition of the Japanese Art Association: Paintings, Drawings and Photographs, etc. by the Young Japanese Artists in New York, Yamanaka Galleries, New York, March 12–24, 1917, Box 4, Folder 51, Miscellaneous Art Exhibition Catalog Collection, 1813–1953, Archives of American Art, Smithsonian Institution. See also Tom Wolf, “The Tip of the Iceberg: Early Asian American Artists in New York,” in Asian American Art: A History, 1850–1970, ed. Gordon H. Chang, Mark Dean Johnson, and Paul J. Karlstrom (Stanford, CA: Stanford University Press, 2008); Ichiro Okumura, “Seisho Hamachi: New York, Paris, Tokyo, Wakayama,” The Museum of Modern Art, Wakayama News, no. 107. (2021).
6. Catalogue of the Second Annual Exhibition of the Society of Independent Artists (New York, 1918); “Marcel Duchamp and the Fountain Scandal,” Philadelphia Museum of Art, https://www.philamuseum.org/exhibitions/marcel-duchamp-and-the-fountain-scandal.
7. Ramona Handel-Bajema, Art Across Borders: Japanese Artists in the United States, 1895–1955 (PhD diss., Columbia University, 2012); New York Shimpo, April 9, 1924; Catalogue of the Third Annual Exhibition of the Society of Independent Artists (New York, 1919).
せめぎ合う近代美術の構想
1920年代までに、日本人美術家たちは、美術学校、画廊、独立展、商業美術工房、移民の暮らす地域社会によって形づくられたニューヨークの美術界で活動するようになっていた。問題はもはや、単に展覧会へ出品できるかどうかではなかった。近代美術をめぐる異なる構想がせめぎ合うこの都市で、どのように自らの居場所を見いだすかが問われていた。
ニューヨークが美術家たちに示したのは、近代的であるための一つの決まった方法ではなかった。ジョン・スローンをはじめ、都市写実主義に関わった画家たちは、レストラン、劇場、歩道、労働者階級の居住区を、真剣に描くべき主題として取り上げた。イタリア生まれのジョセフ・ステラは、橋や電灯を、産業化のエネルギーを表すイメージへと変えた。そのほかの美術家たちは、抽象表現、商業イラストレーション、写真、人物表現への新たな取り組みを探究した。彼らは、一つの統一された芸術運動を形成していたわけではない。その相違こそが、ニューヨークを近代的な都市にした要素の一つだった。 アート・スチューデンツ・リーグは、こうした多様なアプローチが出会う場となった。大学ではなく美術家たちによって運営され、学生は講師と授業を個別に選ぶことができた。比較的柔軟な授業日程により、従来の教育課程に通うことが難しい移民や、働きながら制作を続ける美術家にも門戸が開かれていた。1
このニューヨークの芸術家コミュニティにおいて、作家たちと日本との関わり方はそれぞれ異なっていた。 浜地清松の《赤い帽子》(1928年), では、室内に日本の浮世絵が印象的に描かれている。杉森次三郎の自画像にも、浮世絵や日本の陶磁器が置かれた室内で制作する画家自身の姿が描かれている。一方、国吉康雄が描いたニューヨークのアトリエには、このように明確に日本を示すものは見られない。こうした違いからも、「日本人」というアイデンティティをひとつの視覚的なカテゴリーとして捉えることはできないことがわかる。
清水登之と近代都市
清水登之は1917年にニューヨークへ移り、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインとアート・スチューデンツ・リーグで学んだ。指導者には、ケネス・ヘイズ・ミラーやジョン・スローンがいた。スローンは、都市の日常的な経験を芸術の重要な主題として扱ったことで知られていたが、清水は単に彼を模倣したのではない。レストラン、夜の街路、娯楽の場、人々で混み合う室内を描きながら、独自の絵画表現を築いていった。
《チャプスイ店にて》では、客がテーブルを囲み、その間を給仕たちが行き交っている。余暇と労働が、同じ空間を占めている。この作品は、近代都市の生活が、高層建築や機械だけでなく、食事、接客労働、人工照明、消費、そして見知らぬ者同士の出会いによっても形づくられていたことを示している。《ニューヨーク、夜のチャイナタウン》は、さらに複雑な都市の情景を描いている。20世紀初頭までに、観光会社は白人観光客を対象とするチャイナタウン・ツアーを売り出し、しばしばこの地区を、謎めいた、危険な、あるいは異国的な場所として紹介していた。
清水の作品では、飲食店、歩行者、吊り下げられた灯り、そして同時に展開するいくつもの出来事で満たされた通りを、観光バスが走り抜けている。観光客がチャイナタウンを眺める一方で、この作品は私たちに、その観光客たちを見つめるよう促している。2 清水自身も、人種的制約のもとで暮らすアジア系移民だったが、その立場はニューヨークの中国系住民と同じではなかった。この作品には、複数の視点が重なり合っている。ステレオタイプを通してチャイナタウンを見る観光客、日本人移民として通りを観察する清水、そして後世からこの情景を読み解く現代の鑑賞者である。こうした視点の違いによって、この作品は単なる活気ある都市風景を超えるものとなっている。
国吉康雄と「クニヨシズム」
国吉康雄は、清水とは異なる道筋を経て、ニューヨークのモダニズムに加わった。1906年、16歳の労働移民として渡米した国吉は、当初、美術家になることを目指していたわけではなかった。ロサンゼルスで美術を学んだ後、ニューヨークへ移り、1916年にアート・スチューデンツ・リーグへ入学した。国吉はケネス・ヘイズ・ミラーに学んだ。ミラーの教育は、ヨーロッパの古典絵画の巨匠と近代美術家の双方を参照するものだった。
しかし、国吉の絵画は、特定の師や一国の美術的伝統をそのまま踏襲するものではなかった。初期作品には、歪められた身体、動物、田園風景、記憶、ユーモア、そして視覚的な不安感が組み合わされている。平面的な空間表現と、予想外の尺度の変化によって、日常的な主題がどこか奇妙なものとして現れる。国吉の美術教育と職業経歴はアメリカで築かれたにもかかわらず、批評家たちはその作品のなかに、明確に日本的な特質を見いだそうとすることが多かった。国吉は、自らの作品が日本またはアメリカのいずれか一方の影響だけで説明されることに抵抗し、独自の表現を「クニヨシズム」と呼んだ。
この言葉には、国籍にもとづくアイデンティティだけで自らの美術のすべてを説明されることを拒む、国吉の姿勢が表れていた。3 また、国吉の経歴は人とのつながりにも支えられていた。師、パトロン、画廊、仲間の美術家、友人たちは、制作場所の提供、人の紹介、批評、作品発表の機会などを通じて国吉を支えた。近代美術は、孤立した個人だけによって生み出されたものではない。それは、人的・物質的なネットワークによって成り立っていた。
臼井文平と美術を取り巻く仕事
臼井文平は、画家であると同時に額縁職人として、この美術界に関わっていた。額縁制作の仕事を通じて、国吉康雄やイサム・ノグチをはじめとする美術家たちと交流した。額縁は、単なる装飾ではない。絵画がどのように見えるか、どのように画廊や家庭へ収められるか、そして鑑賞者がその価値をどう理解するかにも影響を与えた。臼井の《アトリエの国吉康雄の肖像》は、こうした美術家たちのネットワークを可視化している。国吉は孤立した著名人としてではなく、制作の場のなかに身を置く姿で描かれている。
この作品は二人の友情を記録すると同時に、アトリエが、絵画、家具、会話、共同作業によって形づくられる社会的な場であったことを示している。臼井の経歴は、美術活動に参加することの意味を広げる。日本人移民の美術家は、絵を描き、額縁や家具を制作し、事業を経営し、美術家同士を引き合わせ、作品を展示するための準備を手伝うこともあった。絵画を取り巻くこうした実務的な仕事も、近代美術から切り離されたものではなく、その一部だった。4
美術活動の機会と人種的排除
ニューヨークがさまざまな機会を提供する一方で、アメリカ全体では排外的な制限が強まりつつあった。1924年移民法は、出身国にもとづいて移民数を制限し、市民権を取得する資格がないとみなされた移民を排除した。連邦法によって日本人移民はこの区分に置かれていたため、同法は日本からの移民を事実上禁止した。5
この矛盾は、ニューヨークの美術活動を大きく形づくった。美術家たちは地域の境界を越えて移動し、門戸の開かれた美術学校で学び、展覧会に参加し、異なる国の出身者同士で関係を築くことができた。その一方で、連邦法は、日本人移民が自由に入国することも、帰化して市民権を得ることも認めなかった。彼らのモダニズムは、日本かアメリカかのどちらかを選ぶことによって生まれたのではない。美術の思想、人びと、労働、資金が広く行き交う都市で暮らし、働くなかから生まれたのである。その同じ都市で、人種にもとづく法律は、誰が社会の一員となれるのかを定めようとしていた。
NOTES
1. “Legacy of the League,” Art Students League of New York, https://www.artstudentsleague.org/legacy-of-the-league. The League was organized around independent classes led by individual instructors rather than a standardized degree curriculum.
2. Chad Heap, Slumming: Sexual and Racial Encounters in American Nightlife, 1885–1940 (Chicago: University of Chicago Press, 2009); Tochigi Prefectural Museum of Fine Arts, Shimizu Toshi: Works from the Collection of Tochigi Prefectural Museum of Fine Arts (exhibition catalogue, 2007); See also Tom Wolf, “The Tip of the Iceberg: Early Asian American Artists in New York,” in Asian American Art: A History, 1850–1970, ed. Gordon H. Chang, Mark Dean Johnson, and Paul J. Karlstrom (Stanford, CA: Stanford University Press, 2008), 83–109.
3. ShiPu Wang, Becoming American? The Art and Identity Crisis of Yasuo Kuniyoshi (Honolulu: University of Hawai‘i Press, 2011); Tom Wolf, The Artistic Journey of Yasuo Kuniyoshi (Washington, D.C.: Smithsonian American Art Museum, 2015); Midori Yamamura, “The Artistic Journey of Yasuo Kuniyoshi,” Asian Diasporic Visual Cultures and the Americas 3, no. 3 (2017): 359–62; Shun Itō, “Yasuo Kuniyoshi’s Life and Work in New York,” lecture presented by the Digital Museum of the History of Japanese in New York and the Nippon Club, February 10, 2025; “Yasuo Kuniyoshi (1889–1953),” Digital Museum of the History of Japanese in New York, https://www.historyofjapaneseinny.org/artifacts/yasuo-kuniyoshi/.
4. “Portrait of Yasuo Kuniyoshi in His Studio,” Smithsonian American Art Museum, https://americanart.si.edu/artwork/portrait-yasuo-kuniyoshi-his-studio-25505. For the 1927 group photograph, the identification of Jisaburo Sugimori (also known as George Tera) was provided by his granddaughter, Nancy Kitchen, from a copy of the photograph preserved by the Sugimori family. For the identifications of Yasuo Kuniyoshi, Seishō Hamachi, and Eitaro Ishigaki, see Ichiro Okumura, “Seimatsu Hamaji: New York, Paris, Tokyo, Wakayama,” The Museum of Modern Art, Wakayama News, no. 107 (2021) p. 4.
5. Mae M. Ngai, Impossible Subjects: Illegal Aliens and the Making of Modern America (Princeton, NJ: Princeton University Press, 2004); “The Immigration Act of 1924 (The Johnson-Reed Act),” Office of the Historian, U.S. Department of State, https://history.state.gov/milestones/1921-1936/immigration-act.
誰がアメリカ美術を代表したのか?
美術を学び、展覧会に出品することは、美術家がニューヨークの美術界へ入る助けとなった。しかし、美術家として認められるには、それ以上のものが必要だった。美術館、画廊、批評家、美術学校は、どの美術家がアメリカ近代美術を代表し、誰が主として国籍によって語られる存在にとどまるかを決める役割を担っていた。 この問いは、1930年代の大恐慌期にとりわけ重要になった。美術家や批評家たちは、アメリカ美術が何を描くべきかをめぐって議論した。国境を越えて共有される抽象表現や近代的な様式を支持する者もいれば、都市、労働者、産業、日常生活を描く具象的な情景へ向かう者もいた。ニューヨークでは、こうしたすべてのアプローチが同時に存在していた。
国吉康雄とアメリカン・モダニズム
国吉康雄は、この変化する美術界で最も注目を集める美術家の一人となっていた。1929年、ニューヨーク近代美術館は、同館創設初期に開催した現代アメリカ美術の展覧会「19人の現存アメリカ作家展」に国吉を選出した。1933年には、アート・スチューデンツ・リーグの教員となった。こうした実績により、国吉はアメリカ美術の定義を形づくる機関の内部に位置を占めるようになった。1 しかし批評家たちは、その後も国吉を第一に「日本人」画家として語り続けた。単純化された形態や独特な遠近法に、日本美術の伝統を見いだそうとする者もいた。しかし国吉の作品は、アメリカの美術学校、友人関係、展覧会、そしてニューヨークとウッドストックで暮らした長い年月を通して形成されたものだった。
国吉は、日本かアメリカかという固定された国民的カテゴリーの一方を選ぶことに抵抗した。自らの表現を「クニヨシズム」と呼んだこともある。この遊び心のある言葉は、国吉の美術が、日本またはアメリカのどちらか一方には還元できない、彼自身の個人的な歩みから生まれたことを示していた。 《力持ちの女と子供》のような作品は、観察、想像力、ユーモア、不安感を組み合わせている。こうした作品は、特定の一つのアメリカ的様式に従うことなく、アメリカン・モダニズムの一部をなしている。
トーマス・ハート・ベントンとアメリカン・シーン絵画
トーマス・ハート・ベントンは、国を代表する美術とは何かという問いに、より公的な答えを提示した。ベントンはアート・スチューデンツ・リーグで教え、アメリカン・シーン絵画とリージョナリズムの中心的な画家となった。これらの動向は、アメリカの土地、歴史、日常生活を描く、具体的で認識しやすい情景を重視した。 ニュー・スクールのために制作された壁画連作《アメリカ・トゥデイ》は、産業、交通、娯楽、農業、労働を通してアメリカ合衆国を表現している。《地下鉄のある都市活動》では、乗客、踊る人々、労働者、看板、機械が、せわしない都市のリズムのなかに圧縮されている。この壁画は、近代都市の生活を、国家の物語の一部として扱っている。 しかし、ベントンが示したものは、アメリカを捉える一つの見方にすぎなかった。美術家たちが表現したアメリカは、多くのアメリカ美術史の概説が認めていた以上に、文化的にも人種的にも多様だった。2
野田英夫と市民権の意味
野田英夫は、国吉とは異なる立場からこの議論に加わった。1908年にカリフォルニア州で生まれた野田は、日系アメリカ人二世(Nisei)であり、アメリカ市民権を持っていた。幼少期の一部を日本で過ごした後、アメリカへ戻り、カリフォルニアで美術を学んでから、ニューヨークとウッドストックで活動した。都市風景、風景画、人物習作には、アメリカン・シーン絵画と国外の近代美術の双方からの影響が見られる。 1934年、ホイットニー美術館は「第2回現代アメリカ絵画ビエンナーレ」に野田を選出した。この出品は重要な意味を持つ。美術館は野田の作品を現代アメリカ美術の展覧会で紹介したが、人種にもとづく先入観によって、日系二世の美術家が依然として外国人のように扱われることもあった。市民権の有無は、野田と、国吉のような日本から移住した一世(Issei)の美術家との間に法的な違いをもたらした。しかし、それによって鑑賞者の見方まで決まるわけではなかった。3 野田の《地下鉄入口は暮るる》は、ベントンやニューヨークの写実主義画家たちが描いた、なじみ深い主題に取り組んだ。地下鉄の入口は、単なる近代技術の象徴ではない。そこは、人々の身体、時刻、仕事、そして移り変わる都市の光が交わる場所である。ベントンの作品と並べて見ると、野田の作品は、アメリカの都市美術が、単一の社会的・人種的立場から生み出されたのではないことを示している。
イサム・ノグチと多様な素材と形
イサム・ノグチは、こうしたカテゴリーをさらに揺さぶった。アメリカ人の母と日本人の父のもとにロサンゼルスで生まれ、幼少期を日本とアメリカの両方で過ごした。ニューヨークでは、彫刻、肖像制作、家具、舞台美術、ランドスケープ・デザインなど、多様な分野を横断して活動した。国吉をはじめとする年長の日本人美術家たちも、ノグチの初期の芸術的コミュニティの一部を形成していた。その活動は、国外の近代美術や、ニューヨークにおける実験的なダンスとデザインの世界との関わりを通しても発展した。4 《ミス・エクスパンディング・ユニバース》は、ダンサーのルース・ペイジとの協働から生まれた。その曲線的な形態は、身体が空間のなかで開き、回転し、あるいは広がっていく姿を思わせる。この彫刻によって、本章の視野は絵画を越え、国民性を明確に示す主題を探すことからも離れていく。そして、アメリカ美術が、実験、運動、協働、交流によっても定義されうるのではないかと問いかける。 なお、作品自体の素材はアルミニウムです。イサム・ノグチ・アーカイブ。「多様な素材」を扱う見出しにするなら、本文にも石、木、金属などの具体的な素材についての説明が必要になります。
評価と排除
1930年代半ばまでに、日本人および日系アメリカ人の美術家たちは、主要な美術館の展覧会に出品し、影響力のある美術学校で教え、近代美術をめぐる議論に参加していた。彼らの歩みは、重要な矛盾を明らかにする。美術機関がその作品をアメリカ美術として評価する一方で、批評家や観衆は、美術家本人を「よそ者」として扱い続けることがあった。 したがって、問われていたのはもはや、日本人および日系アメリカ人の美術家がアメリカ美術に参加していたかどうかではない。彼らが参加していたことは明らかだった。より難しい問いは、アメリカ美術史が彼らを、その物語における例外としてではなく、中心的な担い手として認めるかどうかだった。
NOTES
1. On Kuniyoshi’s inclusion in the Museum of Modern Art’s Nineteen Living Americans, his appointment to the Art Students League faculty, and the racialized reception of his work, see Digital Museum, “Yasuo Kuniyoshi”; ShiPu Wang, Becoming American? The Art and Identity Crisis of Yasuo Kuniyoshi (University of Hawai‘i Press, 2011); and Tom Wolf, The Artistic Journey of Yasuo Kuniyoshi (Smithsonian American Art Museum, 2015).
2. On Benton’s America Today and its representation of modern American labor, transportation, and entertainment, see the Metropolitan Museum of Art’s collection record.
3. For Noda’s participation in the 1934 Whitney Biennial, see the Whitney Museum artist record. On Noda’s work and the different legal and cultural positions occupied by Issei and Nisei artists, see ShiPu Wang, The Other American Moderns: Matsura, Ishigaki, Noda, Hayakawa (Penn State University Press, 2017). For Entrance to Subway at Dusk, see the Uki City Museum collection record.
4. On Noguchi’s upbringing, New York career, and relationships with Japanese artists, see Digital Museum, “Isamu Noguchi” and the Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum chronology. For Miss Expanding Universe, see the Noguchi Archive object record.
公共事業としての美術
大恐慌期、美術を制作することは公共的な課題となった。民間での作品販売や制作依頼が減少するなか、連邦政府の事業は美術家を雇用し、壁画、絵画、版画、彫刻、ポスターを制作させるとともに、地域の美術センターを設立した。政府は美術活動を労働として位置づけ、学校、病院、裁判所をはじめとする公共建築に美術を取り入れた。1 ニューヨークの美術家たちは、公共美術が何を果たすべきかについても議論した。日常生活を記録するべきなのか、歴史を伝えるべきなのか、政治運動を支援するべきなのか、あるいは苦境にある人々に安らぎを与えるべきなのか。こうした問いを通じて、美術家たちは、労働団体、共産主義・社会主義団体、反ファシズム運動、人種的不正義に抗する運動と接点を持つようになった。
メキシコ壁画運動とパトロンの力
メキシコ壁画運動は、重要な手本を示した。ディエゴ・リベラ、ホセ・クレメンテ・オロスコ、ダビッド・アルファロ・シケイロスは、公共空間に描かれた大規模なイメージを用いて、歴史を革命、産業、集団的な闘争と結びつけた。彼らの作品は、アメリカで活動するさまざまな国籍の美術家に影響を与えた。 1933年、野田英夫はロックフェラー・センターで、リベラの《岐路に立つ人間》の制作を手伝った。リベラがウラジーミル・レーニンの肖像を削除することを拒むと、壁画は覆い隠され、その後破壊された。この論争は、強大な力を持つパトロンが、野心的な美術作品に資金を提供する一方で、何を一般の人々に見せるかを支配することもできるという事実を明らかにした。2
美術、人種的不正義、連帯
野田がスコッツボロ事件を題材に描いた作品も、こうした政治文化のなかに位置づけられる。この事件では、1931年、アラバマ州で9人の若い黒人男性が、2人の白人女性に暴行を加えたとして、無実の罪で告発された。彼らをめぐる裁判は、人種的不正義を象徴する事件として国際的に知られるようになった。 野田の作品は、法廷の場面を描いたものではない。そこには、怯え、疲れ果てた人物たちが、身を寄せ合うように描かれている。野田は、広く報道された裁判事件を、傷つきやすい人間の姿と集団的な恐怖を表すイメージへと変えた。3 野田は日系二世の美術家として、アフリカ系アメリカ人に向けられた暴力を表現した。石垣栄太郎は、日本人移民であり社会主義活動家でもあるという異なる立場から、人種的・経済的不正義に取り組んだ。二人の作品は連帯を表していた。しかし連帯したからといって、彼らの経験が、作品に描かれた人々の経験と同じになるわけではない。したがって、これらの作品は、ハーレムやアフリカ系アメリカ人の生活の内側から声を上げていた黒人美術家や団体の活動と併せて理解する必要がある。
石垣栄太郎:芸術、移民、そして社会闘争
1930年代、石垣栄太郎は社会的・政治的な主題をより積極的に取り上げるようになった。1932年の《ボーナス・マーチ(The Bonus March)》では、第一次世界大戦の退役軍人たちが、軍務に対して約束されていたボーナスの早期支給を求めてワシントンへ行進した抗議運動を描いている。画面の中央では、黒人の退役軍人が負傷した白人の退役軍人を抱えている。美術史家のShiPu Wangは、従来の人種的な力関係を反転させたこの表現を、労働者と退役軍人のあいだの人種を超えた連帯を示すものと解釈している。4
同時に、この作品はより大きな問いを投げかけている。芸術家は、他のコミュニティを代弁する立場を取ることなく、その人々が直面する社会的な問題にどのように関わることができるのだろうか。石垣は、こうした社会への関心を連邦美術計画(Federal Art Project)での仕事にも展開した。1930年代後半には、ハーレム裁判所のために、アメリカ独立革命、南北戦争、奴隷解放などの歴史的出来事を題材とする壁画を構想した。
これらの壁画が制作されたハーレムには、すでに黒人を中心とする力強い芸術・政治活動の基盤が築かれていた。オーガスタ・サヴェージ、チャールズ・アルストン、アーロン・ダグラス、ジェイコブ・ローレンスらの芸術家は、黒人が主体となって運営する美術学校やワークショップ、団体で活動していた。ハーレム・アーティスツ・ギルド(Harlem Artists Guild)は、連邦政府の美術事業に対して、より多くの黒人芸術家を雇用するよう働きかけ、ハーレム・コミュニティ・アート・センター(Harlem Community Art Center)は、地域住民に美術教育の機会を提供した。石垣の壁画は、こうしたより大きな文化的環境のなかに位置づけられるものであり、それだけでハーレムを代表するものではなかった。5
石垣の政治的な関心は、アメリカ国内の社会問題にとどまらなかった。日中戦争の勃発、さらにその後の太平洋戦争を背景に、戦争やファシズムに反対する作品を数多く制作した。その活動を生涯にわたって見渡すと、ニューヨークでの石垣の仕事は、移民としての経験と、労働、人種的不正義、戦争、政治的抑圧といった問題への、次第に国際的な広がりをもつ関心とを結びつけるものであった。5
市民権と連邦政府の雇用からの排除
1937年、救済事業に関する法律により、WPAでの雇用は、アメリカ市民および市民権取得の意思をすでに正式に届け出ていた一部の非市民に限定された。しかし、日本人移民は法律上、帰化によって市民権を取得することが認められていなかったため、石垣栄太郎、保忠蔵をはじめとする移民芸術家は、WPAで雇用される資格を失った。
この矛盾は深刻なものだった。政府は石垣を雇い、公共施設である裁判所にアメリカの歴史を描かせたにもかかわらず、その後、市民権を持たないことを理由に、作品を完成させる資格がないと判断したのである。 石垣の壁画はその後、アメリカ史上の著名人や人種の歴史の扱いをめぐって批判された。壁画はのちに撤去され、現在では破壊されて現存しないと考えられている。完成した各パネルの姿を伝える主要な視覚記録として、連邦政府が撮影した写真が残されている。6
美術家たちの連帯
美術家たちは、連帯して行動した。1937年、ACA画廊で開催された「ニューヨークの中国人・日本人美術家による絵画展」は、中国人と日本人の美術家を一堂に集めた。展覧会が開幕した当時、アジア系移民は連邦政府の雇用から排除されつつあり、日本による中国侵略も激しさを増していた。当時の資料は、この展覧会を、アメリカにおける人種差別への抗議であると同時に、日本の軍国主義に反対する意思の表明として紹介している。7
日常的な主題と制作をめぐる労働環境
連邦政府の美術事業で制作されたすべての作品が、明白な政治的メッセージを帯びていたわけではない。保忠蔵はマンハッタンの建物や樹木を版画に表し、臼井文平は新聞の傍らに生けられた花を描いた。そのほかの美術家たちは、港、庭園、建設現場、模様のある布などを題材とした。これらの作品は、公的雇用が抗議の表現だけでなく、観察と実験の機会をも支えていたことを示している。
これらの作品の政治的意味は、それが制作された条件そのものにもある。政府による雇用は、賃金、材料、設備、そして制作のための時間を提供した。しかし、行政上の決定ひとつで、どの美術家が制作を続けられるのか、そして誰が公的事業から排除されるのかが決められた。
世界恐慌から戦争へ
1930年代の政治的美術は、ニューヨークの美術館や画廊の外で発展したのではない。同じ都市の美術界のなかで展開しながら、労働、人種差別、公的責任、政府権力をめぐる、より切迫した問いを投げかけたのである。1930年代末までには、これらの問題は、反ファシズムと迫りくる戦争から切り離せないものとなっていた。すでに移民美術家を連邦政府の雇用から排除するために用いられていた市民権は、やがて市民、外国人、敵国人を分ける、はるかに苛烈な境界線の一部となっていく。
NOTES
1. On the Federal Art Project and the distinction among the New Deal art programs, see the U.S. Department of the Treasury’s overview of the WPA art collection and the Metropolitan Museum of Art, “The Art of the Great Depression”.
2. On Mexican muralism’s influence in the United States and Ishigaki’s place within that history, see the Whitney Museum of American Art, Vida Americana: Mexican Muralists Remake American Art, 1925–1945. On Rivera’s Rockefeller Center mural and the assistants working with him, including Noda, see Justin Akers Chacón Zumoff, “Diego Rivera’s Man at the Crossroads and the Left in the 1930s,” Anales del Instituto de Investigaciones Estéticas 44, no. 121 (2022).
3. On Noda’s painting and its relationship to New York political art, see ShiPu Wang, The Other American Moderns: Matsura, Ishigaki, Noda, Hayakawa (Penn State University Press, 2017), and the Archives of American Art’s Hideo Noda Papers.
4. On The Bonus March and Ishigaki’s representation of race and solidarity, see ShiPu Wang, “By Proxy of His Black Hero: ‘The Bonus March’ (1932) and Eitarō Ishigaki’s Critical Engagement in American Leftist Discourses”, American Studies 51, nos. 3–4 (2010): 7–30.
5. For Eitarō Ishigaki’s life and career in the United States, see Eitarō Ishigaki Retrospective: 120th Anniversary of His Birth, The Museum of Modern Art, Wakayama, 2013, including Ichiro Okumura, “What We Can Find from Eitaro Ishigaki’s Collection.” For Black artists’ organizing within federal art programs and the Harlem Artists Guild, see the Archives of American Art oral history interview with Charles Henry Alston; for the Harlem Community Art Center, see the Smithsonian American Art Museum’s civil-rights history resources.
6. On Ishigaki’s career and mural project, see Ramona Handel-Bajema, Art Across Borders: Japanese Artists in the United States before World War II (MerwinAsia, 2021); and Wang, The Other American Moderns.
7. Paintings by New York Chinese-Japanese Artists, ACA Gallery, September 12–26, 1937, exhibition pamphlet, ACA Galleries Records, Archives of American Art. See also ShiPu Wang’s discussion of the exhibition in The Other American Moderns.
疑念と敵視にさらされる、戦時下の「日本美術」
第二次世界大戦中、アメリカでは「日本」という言葉が、危険な法的・政治的帰結を伴うようになった。戦時下の疑念によって、日本人美術家、日本人が経営する企業、そして日本の美術品に対するニューヨークの扱いは一変した。
山中商会は数十年にわたり、日本をはじめとするアジアの美術品を、アメリカの収集家や美術館に供給してきた。アメリカが参戦すると、政府は同社の米国内の店舗を敵国財産として接収した。ニューヨーク店にあった美術品は、1944年に競売にかけられた。美術品そのものは依然として求められていたが、企業が日本人によって所有されていることは、いまや脅威とみなされた。1
国吉康雄と「敵性外国人」指定
ニューヨークの日本人美術家たちも、これと同様の矛盾に直面した。国吉康雄は30年以上にわたってアメリカに暮らしていたが、人種にもとづく法的制限によって市民権を取得できなかった。真珠湾攻撃後、国吉は「敵性外国人」に指定された。銀行口座の利用や移動を制限され、カメラと双眼鏡も没収された。それにもかかわらず、国吉は日本の軍国主義に反対し、展覧会、ラジオ放送、募金活動、反ファシズムを訴える作品を通じて、アメリカの戦争遂行に協力した。《水責め》などの作品は、戦時下の暴力に正面から向き合うものだった。それらは国吉自身の政治的信念を表す一方、日系人が自らの忠誠を繰り返し証明するよう求められていた時代に制作された作品でもあった。2
ポストンにおける理想の限界
野口がポストン収容所に入ることを決めた当時、その選択は議論を呼んだ。西海岸から強制的に移送された日系人とは異なり、野口は芸術家、デザイナーとしての経験を収容所の生活改善に役立てたいと考え、ニューヨークから自らポストンへ向かった。選択の余地なく収容された人々のなかには、野口を疑いの目で見て、当局側の人物と受け取る者もいた。 庭園やレクリエーション区域、芸術施設をつくるという野口の提案は誠実なものだったが、そこには、デザインの力によって人々を閉じ込めるためにつくられた強制収容所を、より人間的な環境に変えられるという、当初の素朴な考えも表れていた。収容所当局は計画をほとんど支援せず、いずれも実現しなかった。野口は入所から2か月後に退所を求めたが、実際に解放されたのは、それからさらに数か月後のことだった。
ニューヨークでの拘留
一部の日本人移民にとって、戦時下の規制は拘禁へとつながった。雨宮要生は1910年代からニューヨークで暮らし、活動していた。真珠湾攻撃後、連邦捜査官は敵性外国人管理制度にもとづき、雨宮をエリス島に拘留した。ネルソン・ロックフェラーも釈放を求めて支援に動いたが、その訴えは認められなかった。雨宮はその後、約4年間にわたって連邦政府の拘禁下に置かれた。3
雨宮の拘留は、西海岸から日系アメリカ人を集団的に強制退去させた政策とは、法的に異なるものだった。西海岸の日系人家族は、戦時転住局(WRA)が運営する収容所に拘禁された。一方、雨宮は、正式に「敵性外国人」と指定された人びとを対象とする司法省の制度のもとで拘禁された。これらの政策をあわせて見ると、戦時下の拘禁が全米各地で異なる形をとっていたことがわかる。
強制収容下の美術制作
西海岸では、約12万人の日系人が自宅から強制的に立ち退かされた。
タンフォランとトパーズでは、小圃千浦、日比松三郎、日比久子、ミネ・オオクボをはじめとする収容中の美術家たちが、素描、絵画、彫刻、日本の毛筆画などを教える美術教室を組織した。
日比久子は美術を教えるかたわら、バラック、風景、子どもたち、家事労働などを描いた。ミネ・オオクボも教壇に立ち、文芸誌『トレック』の編集・制作に携わった。カメラの使用が制限されていたため、彼女の素描は、食事、健康診断、砂嵐、労働、退屈、そしてプライバシーの喪失を伝える、ひときわ重要な記録となった。4
アーカンソー州のジェローム収容所では、ヘンリー杉本が高校生や成人に美術を教える一方、強制退去、家族の離散、監視する兵士、収容所での生活を作品に記録した。ジェローム収容所の閉鎖後、杉本と家族はローワー収容所へ移され、そこで制作を続けた。戦前の杉本は、主として風景画や静物画で知られていた。しかし強制収容下では、その作品は不正義と生き延びることを、より直接的に扱うようになった。5
美術教育が、収容所を人道的な場所にしたわけではない。それは、自由を制限するためにつくられた施設のなかで、収容された人びとが学び、観察し、美術家としての自己を保つための手段となった。
トパーズからニューヨークへ
ミネ・オオクボは1944年1月、日比家と杉本家がニューヨークで生活を立て直し始める1年以上前に、同地に到着した。Fortune誌は日本特集号の挿絵を依頼するために彼女を雇い、この仕事を得たことで、オオクボはトパーズを離れることができた。
この仕事には、際立った矛盾があった。オオクボはカリフォルニア州リバーサイド生まれの二世である。カリフォルニア大学バークレー校とヨーロッパで学んでいたが、日本を訪れたことは一度もなかった。それにもかかわらず、同誌は彼女の日本系という出自を、外国である日本を描く資格として扱った。その一方で、同じ出自を理由に、連邦政府は彼女を潜在的な危険人物として収容することができた。6 この仕事を通じて、オオクボはニューヨークの出版界に足を踏み入れたが、彼女はその立場を利用し、自らが直接経験した歴史を伝えた。
強制収容を描いた彼女の素描は、1945年にニューヨークで展示され、1946年に刊行された『Citizen 13660』へと発展した。オオクボは自らを画面の中に描き込むことで、目撃者であると同時に当事者としても登場した。日本を描くために雇われたオオクボは、最終的に、アメリカが行った不正義を伝える最も重要な記録の一つを生み出した。
オオクボは、強制収容中に築いた人間関係もニューヨークでの生活へと引き継いだ。タンフォランとトパーズの美術家コミュニティを通じて知り合った日比久子とは、その後も連絡を取り続けた。現存する書簡からは、オオクボが東部へ移った後も二人の交流が続いていたことがわかる。1945年に日比一家がニューヨークへ移ると、二人の美術家は再び同じ都市で暮らすことになった。二人のつながりは、再定住が単なる個人の移動ではなかったことを示している。美術家たちは、友情や職業上のネットワークも新しい土地へと携えていった。7
東部へ渡る美術
1945年5月、ニューブランズウィックのニュージャージー女子大学は、日本から移住した一世と、日系アメリカ人二世の美術家による絵画と彫刻を展示した。戦時転住局(WRA)ニューアーク事務所が企画したこの展覧会には、当時WRAの収容所で暮らしていた10人の美術家と、ニューヨークをはじめとする東部で以前から活動基盤を築いていた16人の美術家の作品が集められた。
展示風景を撮影した写真は、この展覧会が主題と表現形式の両面で幅広い作品を紹介していたことを伝えている。収容所の美術家による作品には、風景画、肖像画、日常生活の情景などが含まれ、東海岸の美術家たちは、都市風景、静物画、人物を主題とする作品、彫刻などを出品した。出品作家には、国吉康雄、石垣栄太郎、保忠蔵、トーマス永井、コリーン・ドヒ、広田進、カズミ・ソノダ、レオ・アミノ、マサオ・モリ、ベンジ・オオクボ、F・カトウ夫人、ハリー・ヨシズミらが含まれていた。ニューブランズウィックでの展示には1,000人を超える観客が訪れ、その後、展覧会はほかの都市へ巡回した。8
この展覧会は、強制収容や再定住について、ひとつの統一された物語を提示したものではなかった。むしろ、戦時下で大きく異なる状況に置かれていた美術家たちの作品を、同じ展示空間に並べたのである。一部の美術家はニューヨークをはじめとする東部にとどまっていたが、ほかの美術家たちは西海岸から強制的に退去させられ、WRAの収容所に拘禁されていた。作品が必ずしもそうした体験を直接扱っていたわけではない。しかし、それらが一堂に展示された事実は、戦争末期に、一世と二世の美術家による作品がどのように集められ、展示され、各地へと巡回したのかを記録している。
ヘンリー杉本の作品は、別の展覧会を通じてニューヨークで紹介された。1945年夏にローワー収容所を出た後、杉本と家族はニューヨークへ移り住んだ。同年11月から12月にかけて、コモン・カウンシル・フォー・アメリカン・ユニティの主催により、杉本の油彩画と水彩画26点を紹介する個展が開催された。そのうち9点は強制収容所での生活を描き、残る作品は杉本のより幅広い制作活動を示すものだった。杉本の個展とニューブランズウィックのグループ展を区別して捉えることで、強制収容を経験した美術家たちの作品が、それぞれ異なる経路を通じてニューヨークの文化に加わっていったことが明確になる。9
再出発
日比一家は1945年、トパーズからニューヨークへ移った。翌年に日比久子が描いた《恐ろしいニューヨーク》は、解放という単純な物語を退ける作品である。暗い建物が、不安げな小さな人物たちを取り囲んでいる。自由は訪れたが、安心はまだもたらされていない。1947年に夫の日比松三郎が死去すると、久子は制作を続けながら、縫製の仕事で子どもたちを支えた。また、ニューヨーク近代美術館の講座にも通った。ヘンリー杉本はテキスタイル・デザインの仕事を得て、制作を続けた。ミネ・オオクボはグリニッジ・ヴィレッジにとどまり、イラストレーター、著述家、画家としての経歴を築いていった。9 1948年、ホイットニー美術館は国吉康雄の大規模な回顧展を開催した。この展覧会は、アメリカン・モダニズムにおける国吉の中心的な位置を確かなものとしたが、法律上、国吉には依然として市民権を取得する資格がなかった。帰化を阻んでいた人種的制限が撤廃されたのは、1952年のことである。10
「日本美術」を問い直す
「日本美術」という言葉は、美術商が販売する品々、日本で生まれた美術家、日系のアメリカ市民、あるいは鑑賞者が日本的に見えると考えた作品を意味し得た。戦時中、この区分は、職業上の機会や文化的威信をもたらす一方で、人種的な疑念や拘禁につながることもあった。日本人および日系アメリカ人の美術家たちは、アメリカ美術の外側に立ち、そこへ迎え入れられるのを待っていたのではない。彼らはすでに、学校やアトリエで、レストランや地下鉄で、政治組織や連邦美術事業で、収容所の美術教室やニューヨークの小さなアパートで、アメリカ美術をつくり出していた。彼らの歴史は、アメリカ美術が、移住、労働、友情、対立、強制移動、そして生き延びるための営みを通じて形づくられてきたことを明らかにしている。
NOTES
1. Smithsonian American Art Museum, Archives of American Art, Yatsuhashi family papers and records relating to Yamanaka & Company; Illustrated Catalogue of the Valuable Art Treasures and Antiquities Belonging to the New York Stores of Yamanaka & Company, Inc., Now in Process of Liquidation under the Supervision of the Alien Property Custodian of the United States of America (New York, 1944).
2. ShiPu Wang, “Japan against Japan: U.S. Propaganda and Yasuo Kuniyoshi’s Identity Crisis,” American Art 22, no. 1 (Spring 2008): 28–51; Archives of American Art, The Artistic Journey of Yasuo Kuniyoshi.
3. Digital Museum of the History of Japanese in New York, “Yosei Amemiya” and “Issei and Internment at Ellis Island”; Anna Pegler-Gordon, Closing the Golden Door: Asian Migration and the Hidden History of Exclusion at Ellis Island (University of North Carolina Press, 2021).
4. Japanese American National Museum, Hisako Hibi Collection and Miné Okubo Collection; Densho Encyclopedia, “Trek”.
5. Japanese American National Museum, “Henry Sugimoto’s Artistic Evolution”.
6. Japanese American National Museum, “Miné Okubo’s Masterpiece: The Art of Citizen 13660”; Archives of American Art, Miné Okubo Papers.
7. Archives of American Art, Smithsonian Institution, Hisako Hibi and Matsusaburo “George” Hibi Papers, circa 1906–1983, Series 2, correspondence file “Okubo, Mine, 1944–”. A letter from this correspondence was displayed in Pictures of Belonging: Miki Hayakawa, Hisako Hibi, and Miné Okubo at the Smithsonian American Art Museum, 2024–25.
8. Digital Museum of the History of Japanese in New York, Unforgotten Stories; Densho Encyclopedia, “Museum Exhibitions on Incarceration”; War Relocation Authority installation photograph, Bancroft Library via Calisphere.
9. Smithsonian American Art Museum, “Hisako Hibi”; Japanese American National Museum, Sugimoto timeline, Exhibition of Paintings by Henry Sugimoto, and Okubo exhibition history.
10. Whitney Museum of American Art, “Yasuo Kuniyoshi”; Immigration and Nationality Act of 1952, which removed racial restrictions on naturalization while establishing other restrictive immigration policies.
About this Exhibit
『ニューヨークの浮世:20世紀前半のニューヨークにおける日本美術、コミュニティ、そして政治』は、ニューヨーク日本人歴史デジタルミュージアムが企画・公開したオンライン展示です。本展では、20世紀前半のニューヨークで、日本にルーツをもつ芸術家たちが、芸術、社会、政治のなかでどのように活動していたのかを紹介しています。美術と商業、移民と市民権、芸術家たちのコミュニティと政治への関わり、そして第二次世界大戦による大きな変化をたどりながら、「日本人であること」「アメリカ人であること」をめぐる考え方の変化が、芸術家たちの人生や作品にどのような影響を与えたのかを考えます。
本展の制作にあたっては、各章の注に記載している一次資料、美術館・博物館やアーカイブの所蔵資料、そして美術史・歴史学における幅広い研究を参照しました。とりわけ、ラモナ・ハンデル=バジェマ、シープー・ワン、トム・ウルフ、山村みどりの各氏による研究、和歌山県立近代美術館の奥村一郎による調査研究、岡山大学の伊藤駿、才士真司による国吉康雄研究などから、多くを学びました。これらの研究は、移民、市民権、人種、芸術家のコミュニティ、政治への関わり、そしてアメリカ美術史という複数の視点から芸術家たちを考えるうえで、大切な手がかりとなりました。同時に、それぞれの芸術家が置かれていた法的、社会的、文化的な立場の違いにも注意を払いながら展示を構成しています。
また、本展の内容については、当デジタルミュージアムの理事でもあるキャロル・グラック教授にご確認いただき、貴重なご意見をいただきました。このほかにも、研究者や美術館・博物館関係者の皆さまから寄せられたコメント、訂正、資料に関する情報などを検討し、必要に応じて展示に反映しています。
また当館は、『ニューヨークの日本人画家たち―戦前期における芸術活動の足跡』(六花出版、2021年)の著者である佐藤麻衣氏にも感謝申し上げます。佐藤氏からは情報や資料をご提供いただいたほか、いくつかの作品の所在確認や、関連資料を所蔵する美術館・博物館などとのご縁をつないでいただきました。これらのご協力に、心より感謝申し上げます。
そして、画家・杉森次三郎の孫にあたるナンシー・キッチン氏にも心より感謝申し上げます。キッチン氏には、祖父の作品とご家族の写真を快くご提供いただきました。これらの貴重な資料は、杉森のニューヨークでの生活や芸術家コミュニティとのつながりをたどるうえで大きな助けとなり、本展にも大切な視点を加えてくださいました。
最後に、ニューヨーク日系人会(JAA)事務局長の野田美知代氏にも、デジタルミュージアムとその活動を長年にわたり支えていただいていることに、心より感謝申し上げます。野田氏には、ニューヨークの日本人・日系アメリカ人コミュニティについての豊富な実体験に基づく知識、そこに暮らす人々や歴史への深い理解、そしてアーカイブ調査やコミュニティとの連携へのご支援、そして、かけがえのない生き証人として、本展のみならず、当館の活動全体の調査発展にご協力いただいています。
主要参考文献
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Cornell, Daniell, and Mark Dean Johnson, eds. Asian/American/Modern Art: Shifting Currents, 1900–1970. Fine Arts Museums of San Francisco and University of California Press, 2008.
Handel-Bajema, Ramona. Art Across Borders: Japanese Artists in the United States before World War II. MerwinAsia, 2021.
Heap, Chad. Slumming: Sexual and Racial Encounters in American Nightlife, 1885–1940. University of Chicago Press, 2009.
Hemingway, Andrew. Artists on the Left: American Artists and the Communist Movement, 1926–1956. Yale University Press, 2002.
Hibi, Hisako. Peaceful Painter: Memoirs of an Issei Woman Artist. Edited by Ibuki H. Lee. Heyday Books, 2004.
Itō, Shun. “A Study of Changes in the Reception and Interpretation of Yasuo Kuniyoshi’s Work in Japan.” Bulletin of the Graduate School of Education, Okayama University, no. 188 (2025): 115–21.
Langa, Helen. Radical Art: Printmaking and the Left in 1930s New York. University of California Press, 2004.
Ngai, Mae M. Impossible Subjects: Illegal Aliens and the Making of Modern America. Princeton University Press, 2004.
Wang, ShiPu. “Japan against Japan: U.S. Propaganda and Yasuo Kuniyoshi’s Identity Crisis.” American Art 22, no. 1 (Spring 2008): 28–51.
Wang, ShiPu. Becoming American? The Art and Identity Crisis of Yasuo Kuniyoshi. University of Hawai‘i Press, 2011.
Wang, ShiPu. “By Proxy of His Black Hero: ‘The Bonus March’ (1932) and Eitarō Ishigaki’s Critical Engagement in American Leftist Discourses.” American Studies 51, nos. 3–4 (2010): 7–30. Published online 2012.
Wang, ShiPu. The Other American Moderns: Matsura, Ishigaki, Noda, Hayakawa. Penn State University Press, 2017.
Wang, ShiPu, ed. Pictures of Belonging: Miki Hayakawa, Hisako Hibi, and Miné Okubo. Japanese American National Museum and University of California Press, 2023.
Wolf, Tom. The Artistic Journey of Yasuo Kuniyoshi. Smithsonian American Art Museum and D Giles Limited, 2015.
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