三阪 亙 (1923-2019)

ワタル・“ワット”・ミサカは、ニューヨークでの短い選手生活を通じて、アメリカのプロスポーツ史に重要な足跡を残した日系二世のバスケットボール選手である。1947年、現在のNBAの前身であるBAA(Basketball Association of America)でプレーした最初の非白人選手となり、現在のNBA史において最初のアジア系選手として位置づけられている。プロとして出場したのはわずか3試合だったが、彼がマディソン・スクエア・ガーデンに至るまでの歩みは、人種、戦時下の市民権、そしてアメリカ社会における帰属をめぐる、より大きな物語を伝えている。

ミサカは1923年12月21日、ユタ州オグデンで、広島県出身の日本人移民である父・房一と母・辰代のもとに生まれた。一家は、両親がオグデンの25番街で営んでいた理髪店の地下で暮らしていた。地域で数少ない日系人の一人として育ったミサカは、レストランでの入店拒否や反日的な言動など、さまざまな人種差別を経験した。一方、バスケットボールは、彼の速さ、規律、そして努力が正当に評価される場所となった。

身長170センチほどのミサカは、俊敏で粘り強い守備を得意とするガードとして知られるようになった。ウェーバー・カレッジを経てユタ大学に進み、1944年には、マディソン・スクエア・ガーデンで開催されたNCAA選手権で同大学の優勝に貢献した。当時、12万人を超える日系アメリカ人が強制的に移住させられ、収容所に拘禁されていた。ミサカ自身は西海岸の軍事立入禁止区域外に住んでいたため収容されなかったが、チームメイトのマス・タツノの家族はユタ州のトパーズ収容所に拘禁されていた。ミサカはタツノに贈られた優勝記念のブランケットを、収容所の家族に直接届けている。

1944年の優勝後、ミサカは米陸軍に徴兵された。陸軍情報部で日本語の訓練を受け、二等軍曹として占領下の日本に派遣された。米国戦略爆撃調査団の一員として、広島を含む各地で、空襲が市民の心理に与えた影響について聞き取り調査を行った。広島にはミサカ自身の親族も暮らしていた。

帰国後、ユタ大学に復学したミサカは、1947年の全米招待トーナメントで再びニューヨークを訪れた。マディソン・スクエア・ガーデンで行われた決勝戦では、ケンタッキー大学のスター選手ラルフ・ビアードをわずか1得点に抑え、ユタ大学を49対45の勝利に導いた。その守備力と献身的なプレーは、ニューヨークの観客から大きな支持を集めた。

同年、ミサカはBAAのドラフトでニューヨーク・ニックスから指名された。1947–48年シーズンに3試合に出場し、合計7得点を記録したが、その後チームから契約を解除された。当時、その歴史的な意義が広く報じられることはなかった。NBAに初めて黒人選手が登場するのは、それから3年後の1950年である。

ニックス退団後、ミサカはハーレム・グローブトロッターズからの誘いを断り、ユタ州へ戻った。1948年に機械工学の学位を取得し、その後は電気技師として長く働いた。1999年にはユタ州スポーツ殿堂入りを果たした。2000年には全米日系人博物館の展覧会 More Than a Game でその生涯が紹介され、NBAも後年、彼をリーグ史における重要な先駆者として正式に顕彰するようになった。

ミサカ自身は、歴史的な人物になることを目指していたわけではなかった。彼にとって大切だったのは、チームの一員として自分の役割を果たすことだった。しかし、反日感情が色濃く残っていた時代にニューヨーク・ニックスのユニフォームを着たことは、それまで閉ざされていたアメリカのプロスポーツ界に、新たな道を開くこととなった。2019年11月20日、ソルトレイクシティで死去。95歳だった。

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