富田鐵之助(1835–1916)は、仙台藩士から外交官、政府官僚、そして近代日本の金融を担う人物へと転身した人物である。富田のアメリカでの経験は、1867年、勝海舟の子・勝小鹿に同行して渡米したことに始まる。富田は、ニュージャージー州ニューアークにあったニューアーク商業学校で経済と商業を学んだ。学校はニュージャージーに所在していたが、その学びは、当時アメリカ有数の貿易、金融、国際交流の中心であったニューヨーク都市圏の商業世界の中に位置していた。
富田のアメリカ体験において、ニューヨークはとりわけ重要な場所となった。1872年、明治政府は富田をニューヨーク領事心得に任命し、これにより日本のニューヨークにおける領事活動が始まった。この任命は、富田をアメリカにおける日本の初期外交の中心に置くものであった。明治政府が西洋の政治、教育、商業、金融制度を学ぼうとしていた時代に、ニューヨークはアメリカの諸制度と国際的なネットワークに接する重要な拠点であった。
富田のニューヨークでの活動は、1872年7月に同地を訪れた岩倉使節団とも重なっていた。大久保利通や伊藤博文らを含む岩倉使節団は、西洋諸国の制度を調査し、日本に課せられた不平等条約の改正を目指して派遣されたものである。すでにアメリカ社会と商業について経験を積んでいた富田にとって、ニューヨークは、その知識を新しい明治国家のために生かす場となった。富田の役割は、現地経験を持つ日本人留学生や官吏が、初期の在外外交を支えるうえでいかに重要であったかを示している。
ニューヨークにおける富田は、留学、外交、経済近代化が交差する地点に立っていた。その存在は、ニューヨークが単なる到着地や通過点ではなく、日本人官吏が近代的な商業、銀行制度、国際法、公共制度を観察する場であったことを物語る。富田は、海外で得た知識を近代日本の制度づくりへと結びつけた世代の一人であった。
帰国後、富田は国際的な経験を日本の公職に生かしていった。のちに日本銀行の初代副総裁、さらに第2代総裁を務めたほか、貴族院議員、東京府知事としても活動した。富田の経歴は、ニューヨークでの初期の経験が、日本の近代外交、金融、行政制度を担う人材の形成にどのようにつながったのかを示している。