証言と記憶:ニューヨーク/ニュージャージーにおける原爆と第二次世界大戦

この展示は、広島と長崎への原爆投下、そして第二次世界大戦の体験によって人生を大きく変えられた日本人と日系アメリカ人の声を集めている。ある者は被爆者(hibakusha)として生き延び、後にアメリカへ渡った。ある者は日系人収容所で幼少期を過ごし、その後東海岸へ移り住んだ。彼らはいずれもニューヨークとニュージャージーに根づいた日系人コミュニティの一員となり、その記憶を今日へと受け継いでいる。

ここで紹介される物語はそれぞれに個人的な体験であり、戦争、移住、そして記憶によって形づくられている。インタビュー、写真、家族の回想を通して、この展示はそれらの証言を歴史的記録として残すだけでなく、平和と省察への呼びかけとして伝えることを目指している。紹介されている人物には、広島の被爆者である森本トミコ・ウェスト、長崎の被爆者である水田明子・ザイテルバッハがおり、彼女たちの人生は大陸や世代、文化の境界を越えて続いている

このプロジェクトは、ニューヨーク日本人歴史デジタルミュージアムと、研究者、家族、地域の協力者との共同作業によって実現した。私たちの目的は、これらの歴史を顕彰し、世代や国境を越えて対話を続けていくための場をつくることである。

この展示は「生きている展示」である。証言や地域からの資料を引き続き収集しながら、来館者が再び訪れ、思いをめぐらし、そして共有していくことを呼びかけている。

併せて、第二次世界大戦期にニューヨークで生きた日本人と日系アメリカ人の姿を紹介する特別展 Unforgotten Stories もご覧ください。

広島・長崎 被爆者の証言

1945年8月6日、広島の上空で投下されたウラン型爆弾は、TNT火薬1万5千トンに相当する破壊力を持っていた。市内の建物の約7割を焼失・破壊し、1945年末までにおよそ14万人の命を奪った。さらに、生存者の間ではがんや慢性疾患の発症率が高まり続けた。

その3日後、長崎に投下されたより大きなプルトニウム型爆弾は、市の6.7平方キロメートルを壊滅させ、1945年末までに7万4千人の命を奪った。地表の温度は摂氏4,000度に達し、放射能を含んだ雨が降り注いだ。

1945年末までに、広島でおよそ14万人、長崎でさらに7万4千人が犠牲となった。そのうち約3万8千人は子どもであったと推定されている。その後の年月において、生存者の多くは白血病やがんなど、放射線による深刻な後遺症に苦しむことになった。 (出典:ICAN ウェブサイト

森本トミコ・ウェスト

森本トミコの物語は、受賞歴のある短編ドキュメンタリーで紹介されている。

Life Stories によるドキュメンタリー。さらなるインタビューや映像、教材については LifeStories.org をご覧ください。

森本トミコ・ウェストは1932年、広島に生まれた。1945年8月6日、原爆が故郷に投下されたとき、彼女はまだ13歳だった。当時、爆心地からおよそ2マイル離れた軍需工場で働いており、突然まばゆい白い閃光を見たことを記憶している。最初は音もなく、次の瞬間には床に投げ出されていた。幸い壁が衝撃を和らげたが、建物は崩れ落ちた。

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水田明子・ザイテルバッハ

画像をクリックすると、ストーリーマップで水田明子の人生と被爆体験をたどる。

水田明子・ザイテルバッハは1922年10月25日、上海で日本人の家庭に生まれ、幼少期に叔父母に養子として迎えられた。青春期を長崎で過ごし、恵まれた安定した環境の中で育ち、1938年に高校を卒業した。だが彼女の人生は、1945年8月9日、アメリカ合衆国が長崎に原子爆弾を投下した日を境に一変した。当時、三菱電機製作所で働いていた明子は、爆心地からわずか1.5マイルの距離にいた。爆発を生き延びたその体験は、以後の人生を決定づけるものとなった。

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ミチー・タケウチ と セツコ・サーロウ

ミチー・タケウチによるセツコ・サーロウのドキュメンタリー予告編を見る

『ヒロシマからの誓い』 監督:ミチー・タケウチ 2019年
https://thevowfromhiroshima.com/

ミチー・タケウチはニューヨークを拠点に活動する映画監督、作家、そして社会活動家である。日本に生まれ、東京とアメリカで教育を受けた。彼女は広島の被爆者であり赤十字の医師でもあった父を持つ。父は原爆を生き延び、その後の生涯を医学と癒やしに捧げた。2020年、ミチーは長編ドキュメンタリー『ヒロシマからの誓い』を発表し、世界で最も広く知られる被爆者の一人、セツコ・サーロウの人生と証言を中心に描いた。

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シゲコ・ササモリ と ヒロシマ・メイデンズ(広島乙女)

1950年代、広島の原爆で顔や体に損傷を負った25人の若い女性たちが、再建手術を受けるためニューヨークのマウントサイナイ病院に招かれた。彼女たちは「ヒロシマ・メイデンズ(広島乙女)」として広く知られ、冷戦期における戦後和解と人道的支援の象徴となった。その一人、シゲコ・ササモリはアメリカで看護の道を歩み、のちにニューヨークへ移り、多くの年月にわたり地域活動や平和活動に携わった。

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「メイデンズ、マンハッタンを巡る」―1956年10月26日発行『コリアーズ』誌、セントラルパークにて(p.92)

古本 武司

画像をクリックして、NHKによるドキュメンタリーでタク・フルモトについて学ぼう。

中村真夕(監督)『広島に育ち、ベトナムで戦った』 NHKワールド JAPAN、2025年3月放送。

タケシ(タク)・フルモトは、第二次世界大戦中の1944年、トゥーリー湖戦時転住センターで生まれた。幼少期を広島で過ごし、祖父母や同級生は被爆者であった。1956年にアメリカへ戻った後、ベトナム戦争では陸軍の情報将校として従軍し、1971年にブロンズスター勲章を受章した。帰国後はPTSDに苦しみながらも、自らの経験を社会正義、地域活動、異文化理解への生涯の取り組みに注いできた。2025年には、中村真夕監督によるNHKワールドのドキュメンタリー『広島に育ち、ベトナムで戦った』で彼の物語が紹介された。

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シーブロック農場

シーブロック農場は、第二次世界大戦後の日系アメリカ人の再定住において重要な拠点となったニュージャージー州南部の大規模アグリビジネスである。1940年代から50年代の最盛期には、戦時中に強制収容された日系アメリカ人を含む、人種的・国籍的に多様な数千人の労働者を雇用していた。シーブロックでの彼らの経験は、戦争のトラウマと戦後の移住に直面しながらも、生存、労働、そして地域再建を成し遂げた物語として強い説得力を持っている。

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マサル・エドマンド・ナカワタセ

マサル・エドマンド・ナカワタセ(1943年生まれ)は、日系アメリカ人の公民権運動家、教育者、そして平和と正義のための活動家である。第二次世界大戦中、アリゾナ州のポストン戦時転住センターで生まれ、戦争末期に家族とともにシーブロック農場へ移り住んだ。幼いながらも、戦争と不正によって故郷を追われた人々と暮らした経験は、彼の政治的・倫理的な視野を大きく形づけた。その後の人種正義への献身や非暴力運動への参加は、この特異な環境の中で学んだ連帯と強靭さの教訓に根ざしている。

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ハバーフォード大学「マサル・エドマンド・ナカワタセ、2021年春の “Friend in Residence” に就任」 『Haverford News』2021年3月24日 (https://www.haverford.edu/college-communications/news/masaru-edmund-nakawatase-haverfords-spring-2021-friend-residence )

ダーリーン・ムコダ

Densho デジタル・リポジトリ「ダーリーン・ムコダ インタビュー」 インタビュアー:トム・イケダ 提供:JACLフィラデルフィア (https://ddr.densho.org/interviews/ddr-phljacl-1-27-1/)

ダーリーン・ムコダは、戦時収容、戦後の再定住、そして地域再建の影響を受けた日系アメリカ人の歴史を記録・保存することに取り組んできた教育者であり、オーラル・ヒストリアンである。ニュージャージー州ブリッジトンで生まれ育ったムコダは、第二次世界大戦中から戦後にかけてシーブロック農場に移り住んだ日系アメリカ人家族の三世にあたる。

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地域団体と平和への取り組み

ニューヨークにおける広島・長崎追悼行事

2000年代初頭以来、ニューヨークの日系団体である広島県人会、バッテン会/長崎県人会、ニューヨーク平和和解財団の三団体は協力し、広島・長崎への原爆投下を追悼する公開行事を毎年開催してきた。

こちらは2024年の追悼式典の映像である。

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学生の証言

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