ニューヨーク万博の日本館 1939–40 / 1964–65
日本とニューヨークは、どちらも早い時期から万国博覧会と関わってきた。1851年のロンドン万国博覧会のあと、1853年にはニューヨークのブライアント・パークで小規模な博覧会が開かれ、オランダ経由の品や、難破した和船から回収された品など、いくつかの日本の展示も行われていた。しかしその後、博覧会に対する関わり方は、両者のあいだで次第に異なっていく。
1860年代にヨーロッパの博覧会を経験した日本の新政府は、国内外で博覧会を積極的に活用し、産業や輸出の振興、そして拡大しつつある国の姿を示そうとした。一方、ニューヨークは、1850年に約60万人だった人口が、1930年には約700万人へと増え、すでに世界有数の大都市となっていた。この時代のニューヨークにとって、博覧会は、もはや自らを売り込むための場ではなかった。しかしその後、時代の流れのなかで、ニューヨークと日本の双方にとって、博覧会はふたたび重要な意味をもつようになる。
1876年 フィラデルフィア:パビリオンには、日本家屋と庭園、バザール、関係者のための居住施設が含まれ、さらに本館展示ホール内には約17,000平方フィートに及ぶ展示が設けられていた。写真:パブリック・ドメイン
1893年 シカゴ:コロンブス世界博覧会における、日本の鳳凰殿(Hōō-den)寺院建築群。撮影 ジョン ジョージ M. グレスナー
1904年 ミズーリ州セントルイス:伝統的な日本家屋と日本庭園。写真:1904年撮影。ウェルカム・コレクション所蔵
1939年ニューヨーク万国博覧会およびゴールデン・ゲート国際博覧会におけるゼネラル・モーターズの展示。
1930年代に入ると、移民制限と大恐慌の影響によって、ニューヨークの人口増加は次第に鈍化していった。一方で、市街地はマンハッタンの外へと広がり、クイーンズやブルックリンなどの地域にも開発が進み、自動車の利用も急速に広まっていく。こうした状況は、ロバート・モーゼスが、公園、橋、トンネルの建設を通じて都市の姿を大きく変え、ニューヨークとオールバニの双方で影響力を強める契機ともなった。
1920年代のニューヨークには、「灰の谷(Valley of Ashes)」と呼ばれる広大なごみ処分場があった。この場所は、F・スコット・フィッツジェラルドの小説『グレート・ギャツビー』にも描かれ、当時の都市の荒廃を象徴する風景として知られている。現在、この一帯はクイーンズのフラッシング・メドウズ=コロナ・パークとなっている。ニューヨーク市工学局/撮影:フェアチャイルド・エアリアル・カメラ社(NYPL デジタル・ギャラリー所蔵)Catalog ID (B-number): b13985741.
この万国博覧会は、もともとモーゼスの構想から生まれたものではなかった。1933年のシカゴ万国博覧会の成功を受け、ジョージ・ワシントン大統領就任150周年を記念して、人々の気持ちを高め、地域経済を活性化させようという発想が生まれたのである。同時に、この博覧会は、かつて湿地であり、やがて「コロナ灰捨て場」となった土地を、新たな公共公園へと生まれ変わらせる機会でもあった。モーゼスは、この計画を高く評価した。
クイーンズ・ミュージアム
1939年4月、会場に姿を現したこの万国博覧会は、国際博覧会のあり方が変わりつつあることをはっきりと示していた。第一次世界大戦以前、博覧会は、産業と帝国の力を誇示する場であり、会場には製品が並び、各国のパビリオンは国の達成を競い合うように示していた。 しかしこの時代になると、農業や工業は、科学と技術へ、帝国の栄光は、企業の野心へ、歴史的様式の建築は、モダニズムの実験へと、その重心を移していく。
1939年ニューヨーク万国博覧会のために制作されたポスター。作者:ジョセフ・ビンダー(1898–1972)。パブリックドメイン。
1940年ニューヨーク万国博覧会 入場券。パブリック・ドメイン。
会場の中心には、万博の象徴として、トライロン(細長い三角錐の塔)と、ペリスフィア(巨大な球体建築)が建てられ、両者は当時世界最長とされたエスカレーターで結ばれていた。ペリスフィアの内部には、「未来都市」を描いたジオラマ「デモクラシティ」が設けられていた。
その周囲には、産業・企業パビリオンが並び、ゼネラル・モーターズ館の「フューチュラマ」というもう一つの模型都市や、ゼネラル・エレクトリックによる「明日の家庭」像など、未来への想像力をさらに強く印象づけていた。
フラッシング・メドウズ公園 開発基本計画図(1936年頃)フィオレロ・ラガーディア市長コレクション。ニューヨーク市公文書館所蔵。
1939年ニューヨーク万国博覧会 会場案内図。
(展示館の配置および鉄道・バス・自動車によるアクセスを示す)。パブリック・ドメイン.。
外国の参加国は、会場の中でもやや離れた位置に配置されていた。二十棟のナショナル・パビリオンは「ネーションズ・ラグーン」の周囲に集められ、さらに四十の国や植民地は、「平和の広場」の両側にある「ネーションズ・ホール」に配置された。日本は、この二つの会場の双方に出展していた。
「日本は“恐怖の部屋”を展示するのか?」ニューヨーク・ポスト紙 投書(1937年)。1939年ニューヨーク万国博覧会への日本の参加に対し、日中戦争を背景とした強い批判を示す記事。日本の戦争行為を理由に、万博という「平和と進歩」を掲げる場に日本が出展することへの疑問と反発が、当時のアメリカ世論の一端として表れている。
1930年代後半になると、日本は中国の農村部における共産勢力の抵抗に直面し、西側諸国からの批判も強まっていた。1938年には、「対日侵略不参加アメリカ委員会」が、アメリカに対して日本への武器供給を停止するよう強く働きかけていた。こうした状況の中で、翌年に予定されていたニューヨークとサンフランシスコの万国博覧会は、日本にとって自国の立場を示す重要な機会となった。日本は、両方の博覧会において、自国のパビリオンを建設した唯一の外国であった。
日本は、これまで繰り返し用いられてきた方法にならい、展示とそのメッセージを二つの方向から構成した。ニューヨークの日本館も、これまでの多くの例と同じように、歴史的な建築を用いて、変わらない伝統と国際的な友好の物語を伝えていた。建物そのものは、「日本建築のもっとも純粋な表現」とされる伊勢神宮をモデルとしている。
大広間には、銅色の絹張りの壁と、これまでで最大規模の漆の屏風が置かれ、片面には尾形光琳の《燕子花図》の複製が、もう一方には太平洋を中心にした世界地図が描かれていた。外交の間には、1854年にペリーが贈ったモールス電信機、1858年の日米修好通商条約の複製、そして銀と数千粒の養殖真珠で作られた自由の鐘の複製が展示されていた。
『Japanese American Review』特別号(1939–40年ニューヨーク万国博覧会特集)クイーンズ・ミュージアム所蔵
『日本の参加 — 伝統衣装の二人』
ニューヨーク公共図書館 デジタルコレクション(Manuscripts and Archives Division)所蔵1935–1945年
1939年ニューヨーク万国博覧会における公式契約の場面。若杉要(日本館総代表)と当時の萬国博覧会関係者グローヴァー・ウェーレンが署名している。ニューヨーク公共図書館デジタルコレクション所蔵(1935–1945年)
日本館の建物外観。ニューヨーク公共図書館デジタルコレクション(Manuscripts and Archives Division)所蔵、1935–1945年。
日本館の建設中の外観骨組み。ニューヨーク公共図書館デジタルコレクション(Manuscripts and Archives Division)所蔵、1935–1945年。
日本館が打ち出した平和的なメッセージは、公式の広報活動によってさらに強調された。日本側の委員たちは、アメリカの新聞に対し、日本館を「婦人欄」で紹介してはどうかと提案している。「美しい茶会や芸術的な生け花」は、「女性の来場者にとくに訴える魅力をもつ」とされたからである。
6月2日の「ジャパン・デー」には、「ミス・ジャパン」として月本明子が来場した。彼女が携えてきたのは、「出雲大社の一五〇〇年の聖火」から分けられた「友情の火」であった。この火は、東京で点火されたのち、太平洋を越えて運ばれ、サンフランシスコ、さらにロサンゼルスで再び清められたという。彼女はこれを万博総裁に手渡し、その後、日本館入口近くに「奉安」された。
この日の締めくくりは、「宝塚歌劇団」の四十名の「出演者(すべて女性)」による「グランド・チェリー・ショー」の特別公演であった。
ニューヨーク公共図書館マニュスクリプト&アーカイブ部門所蔵。
ニューヨーク公共図書館マニュスクリプト&アーカイブ部門所蔵。
日本側は、近代的な成果も示そうとしながら、それが国の過去から自然につながるものであることを伝えようとしていた。そのため日本館では、「絹の間」において、近代産業でさえも伝統に寄り添うものとして表現されていた。「繭から無数の絹糸が紡ぎ出される小さな工場」は、着物や能装束といった伝統衣装のための素材を生み出す場として演出されていた。
また、「ネーションズ・ホール」には、溶けた鋼を流し込む労働者をかたどった巨大なブロンズ像が置かれ、「古い基盤の上に、新しくより良い構造を築き上げる国」というイメージが示された。バウハウスで学んだ山脇巌は、航空工学から教育、漁業に至るまで、日本の近年の発展を示す写真壁画をデザインした。しかし、展示の中でひときわ大きく、当時「世界最大」とうたわれた写真壁画は、高さ約8メートル、幅約33メートルにおよぶ富士山のイメージであった。
ニューヨーク公共図書館マニュスクリプト&アーカイブ部門所蔵。
絹製品の広告。ニューヨーク公共図書館(マニュスクリプト&アーカイブ部門)所蔵。
絹製品の広告。ニューヨーク公共図書館マニュスクリプト&アーカイブ部門所蔵。
日本館は、会場に並ぶ多くの見どころの一つにすぎず、より大規模で主張の強い各国パビリオンや、「明日の世界」を示す消費財の展示の前では、控えめな存在であった。広報資料は、「比類のない風景」や「色彩豊かな」伝統、「アメリカとの友好的な関係」、そして絹の物語が生み出す「完全な調和の雰囲気」を強調していた。しかし、新聞報道での扱いは限られていた。1939年の『ニューヨーク・タイムズ』は、公式に打ち出された友好の姿勢を伝えたものの、翌年には、東アジアにおける日本の動向への疑念が、報道の中心となっていく。
ニューヨーク公共図書館マニュスクリプト&アーカイブ部門所蔵。
この万国博覧会は、ニューヨークの日本人コミュニティからも、大きな関心を集めたわけではなかった。日本館の設計を担当した松井康夫は、内田祥三の助言を受けながら関わり、また、公式活動を支援するための団体も組織されたが、その広がりは限定的であった。
現地の日本語新聞『日米時報』は、万博の位置づけをはっきりと示している。開幕前、同紙で万博が定期的に取り上げられていたのは、主に英語付録の紙面であり、日本館や庭園の計画、宝塚公演などの予告が中心であった。開幕後になると、式典や日本館、支援団体の活動について、日本語の記事も増えていく。しかし年になると、国際情勢の悪化を背景に、「ジャパン・デー」で良い印象を与えることの重要性が強調されるようになった。
しかし、ニューヨークの日本人エリート層にとって、この万国博覧会は、社会的地位や経済的利害を固める数ある機会の一つにすぎず、やがてその意味は、より大きな歴史の流れに飲み込まれていく。
1940年、万博閉幕のひと月前に日本が仏領インドシナへ進出したことで、アメリカ側の疑念は現実のものとなった。翌1941年12月8日、真珠湾攻撃の翌日、松井は逮捕され、エリス島に収容される。さらに5日後、『ニューヨーク・タイムズ』は、市が日本館の取り壊しを決定したと報じた。日本館は「平和と善意の記念碑」として寄贈され、公園局は茶室として活用する予定であったが、もはや「不適当」と判断されたのである。
日本館の解体を伝える『ニューヨーク・タイムズ』記事(1941年12月13日)。
1940年、日本軍の仏領インドシナ進出。パブリック・ドメイン。
1941年、日本軍による真珠湾攻撃。パブリック・ドメイン。