関法然師は、アメリカ東海岸における日本人仏教の基盤を築いた先駆的な僧侶である。1904年に日本の鹿児島で生まれ、浄土真宗の僧侶として龍谷大学で修行を積んだ後、1930年に渡米。ロサンゼルスやアリゾナでの布教活動を経てニューヨークに到着し、1938年、ニューヨーク仏教会を設立した。これは東海岸で最初期に創立された仏教寺院のひとつである。
関師の構想は大胆だった。親鸞聖人の教えをアメリカの文脈で実践すべく、寺は日本からの移民のみならず、二世の日本人アメリカ人、そして最終的には多文化的なコミュニティを受け入れる場となることを目指した。彼の取り組みは、宗教的指導と文化の継承、教育を融合させるものであった。
第二次世界大戦の勃発後、関師はFBIによって逮捕され、「敵性外国人」として分類された。コーシキア、フォート・ミード、サンタフェなど複数の強制収容所に収容され、3年以上を過ごした。この間、寺院の存続は危ぶまれたが、妻と子どもたち(幼いホシナを含む)が戦時下のニューヨークで寺を守り続けた。1946年の釈放後、関師は復帰し、地域社会と寺院の再建に取り組んだ。
その信念は揺るがなかった。1948年には「アメリカ仏教アカデミー」(のちのアメリカ仏教研究センター)を設立。英語による講演、出版、異宗教間の対話を通じて、仏教の教育と文化活動を推進した。仏教がアメリカで根づくには、その教えが開かれ、現代に即したものであるべきだと信じていた。
1955年、関師はリバーサイド・ドライブの寺の前に親鸞聖人のブロンズ像を設置した。この像は広島の原爆を生き延びたものであり、実業家・広瀬誠一によって平和の象徴として寄贈された。像は、戦後の日米和解の努力を象徴する力強い記念碑となり、仏教の不屈の精神を今に伝えている。
関師は、慣習にとらわれない僧侶としても知られる。1970年代には非日系の僧侶を得度させ、多様な背景を持つ人々に寺の門戸を開いた。その革新的な姿勢は、伝統的な仏教界から「異端」と見なされることもあったが、後のアメリカ仏教の発展において重要な礎を築いた。
関法然師は1987年に引退し、1991年にハワイ・マウイ島で逝去。彼の遺した精神は、彼が創設した機関、そして彼の歩みを継ぐ者たち――とくに、共感と包摂のリーダーシップを体現する娘・関ホシナに、いまもなお受け継がれている。
参考文献