野口英世: 日米をつなぐ友情と科学

福島の小さな町からニューヨーク、さらには世界へと至る野口英世の歩みは伝説的である。同時に、ニューヨークで築かれた協力者や友人、諸機関とのネットワークもまた、彼の科学的業績と日本人移民社会での役割を形づくるうえで重要であった。

1876年、猪苗代に生まれた野口は幼少期に火鉢へ落ち、左手に大やけどを負った。手術である程度の機能を回復した彼は、人々を救うために医師を志すようになる。幼少期に手術を担当した渡部鼎医師のもとで徒弟修業を行い、日本での研修を経て1900年に渡米。ペンシルベニア大学医学部で助手を務めた後、ニューヨークのロックフェラー医学研究所に加わった。

野口は細菌学に画期的な貢献を残した。1911年には進行性麻痺(神経梅毒)の原因として脳内のスピロヘータ Treponema pallidum を特定し、当時もっとも恐れられた病の理解を大きく前進させた。その後は黄熱病研究に取り組み、ワクチン開発を求めて中南米やアフリカを歴訪。生涯に数多くの論文を発表し、生理学・医学分野で三度ノーベル賞候補に挙げられた。1928年、アクラ(当時は英領ゴールドコースト、現在のガーナ)で黄熱研究中に自身も感染し、51歳で没した。

ニューヨークでは日本人科学者や専門家の輪の一員でもあった。最も親しい協力者のひとりが1905年に渡米した放射線医学の先駆者・宮原達太郎である。二人は一時期同居し、小さな診療所を共に営んだ。宮原は帰国後、日本でX線治療を発展させたが、放射線障害に苦しむこととなった。もう一人の仲間は歯科技工士の荒木範雄で、野口宅に下宿し、のちに日本に陶材歯の技術を導入した。

こうした交流は地域の組織にも広がった。アドレナリンを抽出した化学者高峰譲吉が1905年に創設した日本倶楽部は、ニューヨークにおける日本人専門職の文化的中心であった。野口もしばしば参加し、友情を育み、移民仲間を支えながら新しい生活を切り拓いた。

当時の追悼記事は、野口の人柄を鮮やかに伝えている。『ブルックリン・イーグル』紙は、彼の伝染するような笑い声、子どものような信念、そして夕食会にまで顕微鏡を持ち込み、食事の合間に標本を覗き込む習慣を回想した。友人たちは、日常生活での謙虚さと、眠る間も惜しむ探究心を語っている。日本倶楽部や日系キリスト教会協会では即興の講演で聴衆を魅了し、科学と地域社会をユーモアと温かさでつないだ。1928年の死はアメリカと日本の双方で深い喪失として受け止められた。

野口の生涯は、国境を超えた日本人科学者ディアスポラのただ中にあった。宮原や荒木のような同僚や、日本倶楽部といった組織を通じ、彼は最先端科学と移民の連帯の交差点に立っていたのである。その業績と記憶は、野心と忍耐、そして共同体の力がいかに国境を越える遺産を築くかを物語っている。

Subject:
Noguchi, Hideyo
Year:
1876-1928
Media Type: