苦難の克服

津田塾大学臨時救済委員会

1900年、津田塾大学(旧女子英学塾)は、日本で数少ない女性のための高等教育機関として東京に開校しました。大学は、アメリカで教育を受け、クエーカーと親交のあった創設者、津田梅子の名前にちなんで命名されました。女性が家事以外の分野で高度な職業訓練を受けることができる日本で唯一の施設として、その後20年以上にわたり、エリート教育機関としての名声を高め、著名な卒業生を輩出しました。

女子英学塾(津田塾大学)の創立者津田梅子、1900年
一番町15番地校舎前庭にて、前列中央に津田梅子、1901年、津田塾大学津田梅子資料室
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しかし、1923年の関東大震災で、津田塾の施設は全壊してしまいます。1924年、梅子の友人でクエーカーであるアナ・ハーツホンは、津田塾の再建資金を調達するために米国に戻り、クエーカーのネットワークを通じ、フィラデルフィアに「津田塾大学臨時救済委員会」の本部を設立しました。ハーツホンは、資金集めを成功させるためには、ニューヨークからの援助も必要であることを理解し、ニューヨークの裕福な慈善家かつ活動家であるナルシッサ・コックス・ヴァンダーリップから援助を受けることにも成功しました。

アナ・C.・ハーツホン、1931年
関東大震災後の火災による津田塾大学の破壊、1923年、津田塾大学津田梅子資料室
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ナルシッサ・ヴァンダーリップは、女性の参政権運動に深く関わり、1910年代から20年代にかけて米国のプログレッシブ派に大きな影響力を有していました。彼女は、日米間の政治的緊張が高まっていた時代、参政権問題にとどまらず、国と国との平和的な関係の促進にも尽力しました。

ヴァンダーリップは、世界中の女性の生活を向上させることが、世界の安定と紛争を回避する手段になると考えました。彼女は、多くのフェミニスト指導者や活動家の中の一人であり、日本における女性の教育機会の向上のような取り組みが、一国のみならず、国際的なフェミニズム運動全体にとって重要であると考えました。両国の指導者や活動家は、潮の満ち引きにより全ての船が持ち上げられるように、このような取り組みが社会全体をより良く生産的なものにできるという信念のもと、世界的なネットワークを駆使し、自国を含め世界中の女性に教育の機会を広めました。

ナルシッサ・コックス・ヴァンダーリップと2人の子供たち、ジョンストンとフランシス・ベンジャミン, 1890年ー1910年頃
ナルシッサ・ヴァンダーリップ 1903ー1920年頃

彼女はクエーカーではありませんでしたが、平和の推進と女性の地位向上を目指すその信念は、当時のクエーカーの信条とも密接に結びついていたのです。

1920年、ナルシッサは夫のフランク・ヴァンダーリップ(著名な銀行家、米国連邦準備制度の創設者、ジャパン・ソサエティ会長)とともに、日米の絆を深めるために訪日しました。この時、ナルシッサは初めて日本の文化に触れ、大きな影響を受け、日本の女性運動に個人的な関心を持つようになり、フェミニズムの推進には国際的な連帯が必要であるという信念を再確認する契機となりました。

フランク・ヴァンダーリップと日本からの要人たち、1928年、パロスバーデス図書館
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ナルシッサは、当時の日本を訪れた多くの西洋人と同様、女性や教育に対する先進的な取り組みの多くは、西洋やキリスト教の影響によるものだという先入観を持っていました。 しかし、実際には、津田塾ではキリスト教の影響と日本の教育や管理の方法とのバランスに配慮し、津田自身が米国での経験やキリスト教の教育モデルに基づいてカリキュラムの一部を構成していたため、ナルシッサは津田塾の体制を「米国と日本の不思議な混合物」と表現しました。彼女は、日本のフェミニズム運動はキリスト教の影響が色濃く反映されるべきという誤った思い込みがあり、日本に対して比較的狭い視野を持っていましたが、結果的に、ナルシッサは資金繰りなどの面で、日本のフェミニズム運動の目標実現に貢献しました。] 。

津田塾大学臨時救済委員会のパンフレット、1923年
ヴァンダーリップ夫妻・ビーチウッド邸の手彩色写真、1912年
バンダーリップ家のビーチウッド邸の庭園、1912年

Mrs. Willard Cope Brinton

Mrs. Henry Sloane Coffin

Mr. Seymour L. Cromwell

Mrs. F. Kingsbury Curtis

Mr. Norman H. Davis

Mrs. William C. Dickerman

Mrs. Alfred E. Drake

Dr. Stephen P. Duggan

Dr. Caroline E. Furness

Hon. Elbert H. Gary

Mr. Jerome D. Greene

Mr. Z. Horikoshi

Mrs. Arthur Curtiss James

Mr. Hideshige Kashiwagi

Mr. Thomas W. Lamont

Mrs. William A. Montgomery

Mr. K. Murai

Mr. Lindsay Russell

Mrs. Francis Louis Slade

Mr. Henry W. Taft

Mr. S. Tajima

Mrs. Charles L. Tiffany

Mrs. Frank A. Vanderlip

「津田塾大学臨時救済委員会」ニューヨーク支部は、全米に数多くある支部の一つに過ぎませんでしたが、1926年までに、学校再建に必要な総額の40%にあたる20万ドル(現在の約170万円)以上の資金を集めることに成功し、ナルシッサやハーツホンをはじめとする有能なチームであることが立証されました。これは学校の再建に必要な総額の40%に相当し、他の米国支部の協力もあり、委員会は運動開始からわずか2年で目標を達成することができました。 

アナ・ハーツホンやニューヨークのコミュニティーの努力がなければ、日本で最も影響力のある女子大学は再建を果たせなかったかもしれません。国境や文化の相違を越えた人々の連帯は日本の女性たちに、女性の役割に関する既成概念にとらわれることなく、自らの人生を前進させる手段を確保することに寄与しました。これら連帯の中核であったアナとクエーカーは、救済委員会のアウトリーチ活動に対する組織的な支援を引き出しました。 

津田塾大学小平キャンパス、1931年、津田塾大学津田梅子資料室

ハーツホン・ホール、津田塾大学津田梅子資料室

関東大震災から10年近く経った1932年、津田塾大学の新キャンパスが完成し、本館は「ハーツホン・ホール」と命名されました。その後も、ヴァンダリップ夫妻は、津田塾大学の資金調達や日米関係の緊密化に努めました。第二次世界大戦が勃発し、平和外交の推進は失敗に終わりましたが、ヴァンダリップ夫妻とハーツホンのレガシーは、現在も日本有数の女性の教育機関である津田塾大学で継承されています。