ニューヨーク万博の日本館 1939–40 / 1964–65
第二次世界大戦後、万国博覧会が本格的に再開されるまでには、時間がかかった。しかし再び博覧会の時代が訪れると、日本政府と企業は、その場を使って、戦後に生まれ変わった日本の姿と、自国の製品を世界に示していった。
1958年のブリュッセル万博では、日本は「深淵の縁からの回復」を示し、「手仕事と機械」を調和させる長年の能力を強調した。1962年のシアトル、1964–65年のニューヨーク、1967年のモントリオールにおいても、日本の伝統は、やがて「経済奇跡」と呼ばれることになる産業製品を包み込む枠組みとして用いられ続けた。
そのなかで、ニューヨークは、舞台としても、そして「非公式の万国博覧会」としても、他の都市とは異なる存在であった。
ニューヨーク公共図書館マニュスクリプト&アーカイブ部門所蔵
1964年ニューヨーク万国博覧会の広報映画(ロバート・モーゼス、ジョン・F・ケネディ出演)。Periscope Film LLC アーカイブ所蔵。
1930年代後半以降、ニューヨークの人口規模はおおむね安定していたが、その構成と分布は大きく変化していた。戦時中から戦後にかけて、アフリカ系アメリカ人やプエルトリコ系住民の流入が増えた。一方で、白人のニューヨーカーたちは、古い地区の変化を嫌い、また、地域政策に支えられた「新しいアメリカン・ドリーム」に惹かれて、郊外へと移っていった。
戦後、ロバート・モーゼスは、インフラだけでなく公営住宅の分野でも権限を強め、高層集合住宅と高速道路を建設することで、家族向けの戸建住宅が並ぶ郊外への移動を促していった。
万博会場案内図。ニューヨーク公共図書館所蔵。
しかし1960年代初頭になると、モーゼスの名声は次第に陰りを見せていた。さらなる高速道路建設計画や、地域の大切な文化施設に対する敵対的な姿勢によって、その評価は傷つき、資金も不足しつつあった。こうした中、再び万国博覧会を主宰することは、彼にとって一石三鳥の策であった。多額の報酬を得ると同時に、巨大な建設予算を通じて権力基盤を強化し、フラッシング・メドウズを灰捨て場から公共公園へと変える計画を完成させることができるからである。もっとも、モーゼス自身は博覧会そのものに強い関心をもっていたわけではなかった。彼は、国際博覧会を統括する正式機関の規則に従うことを拒み、これに対し、国際博覧会事務局(Bureau International des Expositions)は、この博覧会を公式には認めず、加盟国に対して参加しないよう通告した。
ユニスフィア建設中の様子。ニューヨーク公共図書館デジタルコレクション(Manuscripts and Archives Division)所蔵、1959–1971年、パブリック・ドメイン。.
その結果、会場に現れたのは、1939–40年の博覧会の淡い影にすぎないものであり、何よりも収支の帳尻を合わせる必要に突き動かされた万博であった。建築批評家が「同じ“ゾンビのような配置計画”」と呼んだように、基本構成もまた、かつての博覧会をなぞるものであった。トライロンとペリスフィアに代わって、「平和は相互理解から」という理念を体現するユニスフィアが建てられたものの、全体としての焦点は乏しく、むしろ各展示が商業的な競争の中で差別化を図ることに力を注いでいた。自動車会社は再び人気の展示を担い、ゼネラル・モーターズは再び「フューチュラマ」を出展した。外国諸国は、BIEの方針に従い、政府主導ではなく、民間の後援による小規模で商業的な展示にとどまった。
撮影:ロン・ホワイト(ウィキメディア・コモンズ)、パブリック・ドメイン。
1963年12月、開幕前のスペース・パークの様子。パブリック・ドメイン。
撮影:デイヴィッド・ピルマン「惑星の噴水(1964–65年ニューヨーク万国博覧会)」パブリック・ドメイン。
撮影:デイヴィッド・ピルマン「モノレール(1964–65年ニューヨーク万国博覧会)」パブリック・ドメイン。
利益を重視していたにもかかわらず、この万博はほどなく行き詰まり、来場者数も収入も予想を下回った。その結果、報道は、弱みを見せ始めたモーゼスを厳しく批判する材料として、この失敗を繰り返し取り上げた。その一方で、主催者たちは、日本のような新たな見どころを、できるだけ前面に押し出そうとしていた。
日本政府は、インドネシア、インド、パキスタン、エジプト、メキシコと並び、数少ない政府主導のパビリオンを建設した国の一つであった。1958年のブリュッセル、1962年のシアトルでは、日本は欧米の舞台に自らを再び紹介する機会を得て、平和的な現代の発展を支える工芸の伝統を観客にあらためて示してきた。ニューヨークは、1964年の東京オリンピックと歩調を合わせ、産業と技術における目覚ましい進歩へと焦点を移す、より大きな舞台を提供した。
しかし、日本の展示は、最後まで一義的なものではなく、西側の来場者や観察者が「見たい日本」を見ることができる構成となっていた。前川國男の設計による公式パビリオンは、産業発展の物語を語るための、抑制の効いたモダニズム建築であったが、展示内容は二つに分かれていた。前半は、JETROの企画によるもので、天井から吊り下げられた6.3トンのラムダL2ロケットをはじめ、世界最大のタンカーの模型、世界最速の高速列車のモデル、さらに、石油精製、発電、都市計画などにおける日本の技術力を示す資料が並んでいた。一方、後半は、日本出展者協会(JEA)が担当し、自動車、テレビ、ミシンといった消費財とともに、生け花や茶の湯の実演が行われていた。
1964–1965年 ニューヨーク万博 日本館(鳥瞰図)―隣接して建てられた二つの日本館。ニューヨーク公共図書館蔵。
流政之による溶岩石の壁。ニューヨーク公共図書館蔵。
日本館ガイドブック。ニューヨーク公共図書館蔵。
前川國男設計 日本館本館 平面図。ニューヨーク公共図書館蔵。
それだけにとどまらず、JETRO館は、流政之による壮大な溶岩石の壁に守られるように建てられ、そこでは日本の武道実演のための、いかにも古風な背景が用意されていた。一方、JEAは、木造フレームの第二の建物「ハウス・オブ・ジャパン」を委嘱し、「美しい日本庭園」と謳われたアプローチを通って入館する構成とした。内部には「二つの絵のように美しいレストラン」が設けられ、「日本料理の珍味」を味わいながら、「色彩豊かな民族舞台ショー」を鑑賞できるようになっていた。「さくら踊り」は牡丹園に始まり、獅子舞、洗濯、田植えなどの場面を経て、最終的には徳島の阿波踊りへと至る構成であった。自己異国化は、依然として良き商業戦略であった。
1964–1965年 ニューヨーク万博「ハウス・オブ・ジャパン」。JEA委嘱の木造建築。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。
「ハウス・オブ・ジャパン」内部。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。
「さくら踊り」パンフレット。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。
万博公式記録を見れば、日本がこの博覧会にとっていかに価値ある存在であったかは明らかである。神道による起工式、ロバート・モーゼスへの法被の贈呈、横綱やテレビスターの来訪などは、すべて万博の公式写真家によって後世に残された。第二シーズンに向けて万博に新鮮味を与えようとした主催者たちは、日本政府に対し、奈良・京都に由来する飛鳥時代以降の仏像(メトロポリタン美術館の学芸員によって選定されたもの)、公式オリンピック映画の上映、そして皇太子の来訪を要請した。しかし最終的に実現したのは、1920年代に制作された日光東照宮の私蔵レプリカと、三笠宮の訪問のみであった。三笠宮は、日本館への入退館やオリンピック映画の鑑賞の様子を、律儀に写真に収められている。
起工式。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。
起工式におけるロバート・モーゼス(左から二人目)。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。
同時に、主催者たちは日本側出展者を統制しようとしていた。セイコーは、公式方針に反して、日本館の外でロボットを歩かせ、来場者を自社展示に呼び込んでいた。リッカーは、キャビネットを購入すればミシンが当たるという抽選会を執拗に続けていた。1965年には、主催者側はこうした「スタント」に嫌気がさし、館全体の閉鎖をちらつかせるまでに至った。
最終的には日本館は閉鎖されなかったものの、JEAが博覧会運営会社への負債を完済したのは、1966年4月になってからであった。
セイコーによるロボットの館外デモンストレーション。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。
日立製作所展示カタログ。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。
三菱パンフレット。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。
セイコー腕時計パンフレット。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。
三菱電機 パンフレット。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。
三洋電機 パンフレット。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。
「日本は身のほどを知るべきだ」という考えは、起工式におけるモーゼスの発言に明確に表れていた。彼は、「かつて偉大であり、そして再び偉大となるであろう人々」に敬意を表した上で、日本がアメリカの庇護のもとで「自由の砦」となったことに言及した。さらに、日本の「古代の芸術と…現代の製品」を、「完全な屈服状態から、尊敬と尊厳、平静、そして世界的指導力へと流星のごとく回復した証」として歓迎した。しかし同時に、日本の聴衆に対し、彼らはいまだ「世界の好意を得るために競い続けなければならない」のだと念を押した。
「今日の日本人の生活」。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。
「日本経済の役立て方」。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。
日本館 公式パンフレット。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。
北米の一般紙において、日本は好意的に受け止められ続けた。モーゼスの自己陶酔、日本館展示の両義性、日本企業による過剰な商業的演出はいずれも、その評価を大きく損なうことはなかった。
日本館 公式パンフレット。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。
しかし、日系アメリカ人のメディアはより批判的であった。『ニューヨーク日米』は、1964年開幕日の日本語記事を内面に簡潔に掲載するにとどめ、英語面ではタクシー・楠木が「漠然とした失望」を表明した。流政之の壁は評価しつつも、展示の多くはスクーター(日本製小型オートバイ)や磁石、計算機やトランジスタ製品など、既存の土産物店と大差ない内容で、「文化のための余地はないのか」と疑問を投げかけた。結果として、日本館は、華やかさの背後に、文化的深度の乏しさを露呈したのである。
流政之の石の壁は、主催者にとっても最大の見どころであり、万博閉幕後もフラッシング・メドウに残すことが強く望まれていた。しかし、それは実現しなかった。1965年10月、『ニューヨーク・タイムズ』は、壁の一部が、アジア研究プログラムを拡充していたパーチェスのマンハッタンヴィル・カレッジに寄贈されると報じた。壁は運び込まれたものの、再設置にはあまりにも扱いにくかった。その結果、石の一部は学長公邸の庭に用いられ、残りは、現在スポーツフィールドとなっている場所に処分されたとみられる。フラッシング・メドウズ・パークに戻れば、いくつかの構造物はいまも残っているが、日本館の痕跡は何一つ残されていない。
「喜びと悲しみ、万博閉幕」。新聞見出しより。ニューヨーク公共図書館 マニュスクリプト・アーカイブ部門蔵。