藤田嗣治は、1920年代パリで名声を得た日本出身の画家であり、その繊細な線描と乳白色の裸婦像、そして日本画と西洋画の融合で知られている。彼は二度、1930年と1949年にニューヨークを訪れており、その体験は、彼の国際的なキャリアの中でも特に文化的・政治的に複雑な局面を象徴している。
パリを離れた藤田は中南米を巡った後、1930年11月にニューヨークに到着。ワシントンD.C.やマンハッタンで展覧会を開催し、アメリカの批評家からは技術的な精密さと「日本的」な美意識を評価された。一方で、当時のアメリカ社会の物質主義的な雰囲気にはなじめず、作品にはパリへの郷愁が色濃く表れていた。
第二次世界大戦後、藤田は日本国内で強い批判にさらされた。彼は「芸術家は本質的に平和主義者である」と主張したが、日本美術会は1946年に彼を「戦争責任のある画家」として名指しした。連合国軍総司令部(GHQ)が発表した1947年の戦犯リストには藤田の名はなかったものの、戦時中のプロパガンダ画の制作や、責任を明確に否定しない態度が、国内外の信頼を損なった。
アメリカでは、詩人ハリー・ロスコレンコが藤田を支援しようと、ニューヨークのケネディ・アンド・カンパニー画廊で展覧会を開催したが、作品は一枚も売れなかった。藤田とロスコレンコは、その失敗の原因をアメリカ・ニューヨーク在住の画家・国吉康雄の影響と考えた。国吉は公に藤田を「ファシストで帝国主義的」と非難していた。
1949年3月、日系アメリカ人画家・ヘンリー・スギモトの支援によりビザを取得した藤田は、ブルックリン美術館付属美術学校で短期間教鞭をとった。しかし、過去の戦争協力への非難は続き、画家ベン・シャーンらが抗議活動を行った。藤田は失望し、日本からもアメリカからも距離を取る決意を固めた。そして1950年1月、妻君代とともにフランスに移住。「もう二度と出国しない」と誓ったという。
2度にわたるニューヨークでの滞在、希望に満ちた最初の訪問と、追放に近い戦後の再訪――は、戦争・記憶・モダニズムの交差点に立つ芸術家の苦悩と選択を鮮明に映し出している
参考文献
フィリス・バーンバウム(Phyllis Birnbaum)『Glory in a Line: A Life of Foujita—The Artist Caught Between East & West』Faber and Faber, 2006年. https://search.worldcat.org/title/6942643
池田安里(Asato Ikeda)「Fujita Tsuguharu Retrospective 2006: Resurrection of a Former Official War Painter」『Review of Japanese Culture and Society』第21号(2009年)https://carleton.ca/ponja/bibliography/fujita-tsuguharu-retrospective-2006-resurrection-of-a-former-official-war-painter/
「Tsuguharu Foujita」『ウィキペディア英語版』 https://en.wikipedia.org/wiki/Tsuguharu_Foujita
Discover Nikkei. “Leonard Foujita, Part 2.” ディスカバー日系, January 8, 2021. https://discovernikkei.org/en/journal/2021/1/8/leonard-foujita-2/.
Brooklyn Museum. Tsuguharu Foujita (Leonard Foujita), object no. 49.265. Brooklyn, NY: Brooklyn Museum. https://www.brooklynmuseum.org/objects/49265.