はじまり ― 三井高長(1915年卒)
三井家とダートマス大学とのつながりは20世紀初頭にさかのぼる。三井財閥の一員であった三井高長(1915年卒)は、ハノーバーに学んだ最初期の日本人学生の一人であった。彼の渡米は、個人の志だけでなく、三井家全体の国際的な視野を象徴していた。
在学中、高長は重い虫垂炎にかかった。その際、日本領事館の代表者がニューハンプシャーに駆けつけ、ダートマス大学総長アーネスト・フォックス・ニコルズ自らも対応にあたった。感謝の印として、三井家は後に大学へ青銅の梵鐘を寄贈し、日米間の初期の友好の証となった。
戦時下の学生 ― 三井高信(ノブ)(1943年卒)
高長の子息である三井高信(ノブ、1943年卒)は、1939年に物理学専攻として入学した。1941年12月7日の真珠湾攻撃を受けてアメリカが第二次世界大戦に参戦したとき、ノブはすでに在学中であった。彼は「学生移住計画」の対象には含まれていなかったが、思いがけない形でさまざまな脆弱さに直面することになった。
その一例がダートマス放送局(DBS)での出来事である。1942年半ば、ノブはウィリス・レイトン教授の指導のもとでDBSに参加し、新しい送信機の設置を含む放送・技術作業・授業プロジェクトに関わっていた。ところが同年7月3日、地域住民のジョン・H・ショーが大学総長アーネスト・マーティン・ホプキンスに書簡を送り、ノブがDBSに関わることが海軍当局のある地域で戦時的な批判を招くのではないかと懸念を示した。ショーはノブを放送局から外すよう強く求めた。(出典:ローナー・ライブラリー「ダートマス放送局における反日的差別」)
7月6日、ノブは正式にDBSからの退会に同意した。彼の手紙には後悔の念が記されていたが、それは不正を働いたからではなく、学びと友情の機会を失うことへの無念からであった。彼は「自分は十分に賢明で、リスクを避けられたはず」と述べている。ホプキンス総長は彼を擁護し、悪意はなく、問題はむしろ世間の誤解と偏見にあると強調した。大学はその後も入国管理局への働きかけや奨学金・融資の確保を通じてノブを支援した。
さらに、ノブは経済的困難にも直面した。学費はニューヨークにいる従兄弟を通じて管理されていたが、その従兄弟は抑留され、家族の銀行口座も凍結された。大学は緊急融資を手配し、ノブが学業を続けられるようにした。彼は後に、自身の在学を「民主主義のための戦い」であったと述懐している。1943年、彼は無事卒業した。
戦後、ノブは日本に戻り、日本版『リーダーズ・ダイジェスト』の経営に携わった。1965年に逝去したが、妻は彼の日記を『Thank You and So Long』としてまとめ、ダートマスにも寄贈した。
戦後の世代 ― 三井衛(1958年卒)
三井家のダートマスとの縁は、ノブの弟である三井衛(マモル/モリ、1958年卒)へと続いた。1934年生まれの衛は、戦後の比較的落ち着いた時期に卒業した。卒業後は建築分野に進み、1960年代にはニューハンプシャーで活動した。一部の記録ではその後イェール大学での学びも示唆されているが、未確認である。1967年に米国市民権を取得し、2010年にタフツ医療センターで亡くなった。衛の歩みは、戦時の混乱から復興・継続・専門的成長への移行を示している。
背景 ― 第二次大戦期の日本人・日系アメリカ人学生
三井家の物語は、より大きな歴史の一部でもある。例えば、二世の清水忠志(ジョージ・シミズ)も同時期にダートマスに在籍していた。国籍や世間の perception によって困難に直面したノブとは異なり、シミズは移住政策の対象となり、最終的に米国陸軍情報部に従軍した。両者の経験を比較することで、日本人と日系アメリカ人学生が直面した多様な圧力―法的制限、人種的偏見、個人的アイデンティティ―が浮かび上がる。
遺産と継承
1915年の高長から、戦時下のノブ、戦後の衛まで、三井家のダートマスとの結びつきは激動の歴史を貫いている。三井家寄贈の梵鐘、ノブの差別によるDBS退会、衛の専門的キャリアはいずれも、逆境を乗り越えた強さと大学文化の変化を物語っている。2011年には三井物産株式会社が日本研究の教授職を寄附講座として設立し、友情に始まり、戦争で試され、平和のもとで再び結び直された絆をあらためて確認した。
出典