塩田武雄は、日本庭園の美学を20世紀初頭のアメリカに紹介した先駆的な造園家であった。1881年に日本で生まれた塩田は、伝統的な庭園設計を学んだのち、1907年に渡米した。当時、多くのアメリカ人が日本美術や文化に強い関心を抱いており、塩田は数百年にわたり培われてきた日本の造園原理を、ニューヨークという近代都市環境に適応させようと試みた。
塩田の最も永続的な業績は、1915年に完成したブルックリン植物園の日本庭園(ヒル・アンド・ポンド・ガーデン)である。これはアメリカの主要な公共機関に造られた最初期の日本庭園のひとつであった。庭園は「池泉庭園」と「回遊式庭園」の伝統的様式を取り入れ、大岩、橋、石灯籠、精選された植栽を巧みに配置することで、均衡・無常・四季の移ろいを表現している。訪れる人々は曲がりくねった小径を歩きながら、徐々に開かれていく景色を体験し、一幅の生きた絵画の中を進むかのような感覚を味わうことができた。
造園活動に加え、塩田は『The Miniature Japanese Landscape: A Short Description(縮小日本庭園小論)』および『Japanese Gardens and Houses(日本庭園と住宅)』を著した。これらの出版物は、日本の庭園原理を広く紹介したいという彼の思いを反映しており、文化交流が拡大していた時代に、アメリカ人の日本美学理解に大きな影響を与えた。
1920年代には、塩田は日本と西洋の設計理念を融合させた建築家 トーマス・S・ロックライズ(津間沼巌彦、1878–1936) と提携し、専門的な活動をさらに広げた。両者はマンハッタン五番街366番地に事務所を構え、建築と造園を一体化させた設計業務を展開した。この協働は、塩田の柔軟性と、ニューヨークの都市環境における日本的デザインの位置づけを示すものであった。
しかし晩年は困難に見舞われた。第二次世界大戦中、塩田は多くの日系移民・日系アメリカ人と同様に、米国の強制収容所に収監された。この悲劇的な経験は彼の仕事を断ち切り、健康を損なうこととなった。彼は戦後まもない1946年に世を去った。
それでもなお彼の影響は生き続けている。後年に修復が重ねられたブルックリン植物園の日本庭園は、今日でもニューヨークで最も愛される景観のひとつであり、文化的対話の象徴として重要な存在である。塩田の構想は、庭園が単なる設計空間ではなく、芸術作品であり、世界が交わる場であることを今に伝えている。
参考文献
Brooklyn Botanic Garden, “Japanese Garden Centennial,” Brooklyn Botanic Garden, 2025年9月9日アクセス. https://www.bbg.org/collections/japanese_garden_100th_anniversary
Jeanne Rostaing, “BBG’s Japanese Hill-and-Pond Garden: A History,” Brooklyn Botanic Garden Stories, 2015年11月24日. https://www.bbg.org/article/bbgs_japanese_hill_and_pond_garden_a_history
Takeo Shiota, The Miniature Japanese Landscape: A Short Description(ニューヨーク:Shiota Landscape Company, 1910年);Takeo Shiota, Japanese Gardens and Houses(ニューヨーク:1912年)
“Takeo Shiota,” Wikipedia, 最終更新2023年. https://en.wikipedia.org/wiki/Takeo_Shiota
The Cultural Landscape Foundation, “Japanese Hill-and-Pond Garden,” TCLF. https://www.tclf.org/landscapes/japanese-hill-and-pond-garden