シーブルック・ファームと日系アメリカ人の歩み:労働・生存・コミュニティの再生

ニュージャージー州南部に位置するシーブルック・ファームは、第二次世界大戦後、日系アメリカ人の再定住地として重要な役割を果たした大規模農業企業である。1940〜50年代の最盛期には、同農場は数千人規模の多様な人種・民族の労働者を雇用し、その中には強制収容を経験した日系アメリカ人も多く含まれていた。シーブルックでの経験は、戦時下の困難と戦後の再建に向けた歩みの象徴として位置づけられる。

1944年、アメリカ政府の収容政策が転換を始めた中、シーブルック・ファームは戦時転住局(War Relocation Authority)と連携し、ツールレイク、ジェローム、ヒラ・リバーなどの収容所から日系アメリカ人を労働者として募集した。経営者チャールズ・F・シーブルックのもと、同社は家族単位での雇用と住居を提供したが、そこは企業によって厳しく管理された「会社町」のような環境であった。収容所を出るための限られた選択肢のひとつとして、多くの日系人にとってシーブルックは新たな生活の出発点となった。

シーブルックでの生活は、工場型の農業生産体制の下に組織されていた。同農場は冷凍食品技術の先駆者であり、第二次世界大戦中には米軍への主要な食料供給源となった。 日系アメリカ人は畑作業、食品加工、調理など様々な現場で働いた。住宅環境は過密で、人種によって住み分けられ、賃金は低水準にとどまった。それでも、家族が一緒に暮らせること、コミュニティを再構築できる機会があったことは、彼らにとって重要であった。

戦後のシーブルックには、日系人以外にもエストニア人やウクライナ人などのヨーロッパ難民、南部から移住してきたアフリカ系アメリカ人、日本からペルーへ移住していたが戦時中に強制送還された日系ペルー人など、さまざまな背景をもつ人々が集まっていた。これらの集団は「村」単位で分けられながらも共存し、多言語・多文化の環境が形成された。日系人は仏教会や教会、青年団体、文化活動などを通じて互助的なコミュニティを築いていった。

シーブルック・ファームは、日系アメリカ人の戦後の歩みにおいて、矛盾に満ちた場であった。雇用と居住の機会を提供する一方で、労働搾取と人種的分離も強く存在した。それでも、多くの日系人にとって、ここは収容生活の終わりと、人生を再構築するための最初の場所であった。

今日、シーブルックでのこうした経験は、1994年に設立された「シーブルック教育・文化センター」や地域社会の記憶によって保存されている。強制移住、農業労働、移民と難民の歴史を交差させたこの地の記録は、アメリカ現代史における重要な一章を成している。

参考文献

Subject:
Seabrook Farms
Year:
1944
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