ミネ・オクボの歩みは、20世紀アメリカ史の激動と、個人的体験を公共の証言へと昇華させた芸術家の精神を映し出す。1912年、カリフォルニア州リバーサイドに日本人移民の両親のもとに生まれ、カリフォルニア大学バークレー校で美術を学び、学士号と修士号を取得。ヨーロッパでの留学を経て、1930年代後半には連邦美術計画(WPA/Federal Art Project)の下で活動し、1939年から1942年にかけて公共壁画制作に携わった。
真珠湾攻撃と大統領令9066号の発令により、オクボを含む11万人以上の日系アメリカ人が強制退去させられ、カリフォルニア州タナフォラン集合センター、ユタ州トパーズ強制収容所へと送られた。厳しい環境の中でも創作をやめず、2,000点以上のスケッチやドローイングを制作。食事の列、狭いバラック、子どもたちの遊びや小さな連帯の瞬間など、日常の断片を鋭く記録し、収容所生活の最も重要な視覚的証言となった。
1944年、フォーチュン誌にイラストレーターとして採用され、トパーズから解放されニューヨークへ移住。依頼内容は「帝国日本の日常生活」を描くこと。アメリカ生まれで日本を訪れたことのないオクボにとって皮肉な題材であったが、この仕事は収容からの解放と芸術家としての新しい道を切り開く契機となった。
ニューヨーク移住後はグリニッジ・ヴィレッジを拠点とし、生涯ここで暮らした。戦後の活気ある芸術界に身を置き、絵画やイラストを制作・展示しながら、ライフ、タイム、ニューヨーク・タイムズなどにも作品を提供。1946年には収容体験を200点近いドローイングと簡潔な解説でまとめた『Citizen 13660』を出版。日系アメリカ人強制収容を描いた初の個人出版物として高く評価され、今日に至るまで重要な歴史的証言として読み継がれている。
ニューヨークでの数十年は、独立した芸術家としての姿を確立させた時代であった。質素で私的な生活を送りつつ、制作を続け、展示や講演を通じて収容の記憶を社会に伝え続けた。リバーサイドからトパーズ、フォーチュン誌を経てニューヨークに至るオクボの軌跡は、日系アメリカ人の苦難と創造的回復力を象徴する。
参考文献
「忘れられた物語 – コミュニティの再建:ミネ・オクボ」『ニューヨーク日本人歴史デジタルミュージアム』https://www.historyofjapaneseinny.org/unforgotten-stories/rebuilding-community/
「Pictures of Belonging: Miki Hayakawa, Hisako Hibi, and Miné Okubo」スミソニアン・アメリカ美術館https://americanart.si.edu/exhibitions/pictures-of-belonging
米国国立公文書記録管理局
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