前川國男:1964–65年ニューヨーク万国博覧会 日本館主任建築家・モジュール型パビリオン設計

前川國男は、日本近代建築を代表する建築家の一人である。1928年に東京帝国大学を卒業した後、アントニン・レーモンド事務所に入所し、1930年まで勤務した。ここで吉村順三やジョージ・ナカシマらと共に働き、西洋モダニズムの理念と日本的伝統を総合化しようとする建築家たちの動向に早くから触れることになった。この経験は、前川にとって実務的な訓練であると同時に、外来の思想を日本の文脈に適応させる難しさを学ぶ場でもあった。

1930年には渡仏し、ル・コルビュジエのアトリエで二年間図面を担当。合理的な計画、構造の明快さ、鉄筋コンクリートの表現力を直接学んだことは、後の設計思想の基盤となった。1932年に帰国後は一時的にレーモンド事務所に戻ったのち、1935年に独立して自身の事務所を設立した。以降、国際的モダニズムの原則を日本の文化的条件と調和させることを生涯の課題とした。

戦後にはその理念が具体的に結実する。上野の文化会館(1961年)は合理主義と公共性を両立させた象徴的建築であり、また1959年に開館した国立西洋美術館(設計:ル・コルビュジエ)では、坂倉準三とともに協力者として参加した。この美術館は現在ユネスコ世界遺産「ル・コルビュジエの建築作品」に登録されている。こうした仕事を通じて、前川は日本における近代建築の中心的存在として地位を確立した。

国際的に最も注目された作品の一つが、1964–65年ニューヨーク万国博覧会の日本館である。1958年ブリュッセル万博日本館で金星賞を受けた実績に続くこの設計は、冷戦期における日本の文化的立場を示す国家的事業でもあった。日本館は、石壁に囲まれた正方形平面の鉄筋コンクリート造1号館と、中庭を囲む鉄骨造コの字型の2号館から構成され、全体を「一筆書き」のように流れる空間で結んだ。屋根はワイヤーで吊る鉄骨梁により支持され、外壁には流政之の石彫レリーフが施され、日本の城郭を想起させる意匠と近代的な構造実験が融合していた。

現地では「芸術的な見地から見ればNo.1」と高く評価され、石垣や水濠を用いた外観は強い印象を与えた。しかし前川自身は「真の日本館を望む」と題する文章を寄せ、この建築が「封建から宇宙まで百年で到達した」という進歩史観に偏ることを危惧した。彼はレイチェル・カーソン『沈黙の春』(1962年)やジェイン・ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』(1961年)を読み、近代建築が環境破壊や都市の過密化を助長する危険を鋭く意識した。さらに、建築が「資本の利潤」や「官僚機構の論理」に従属することで人間的要請から乖離していく状況を批判し、建築の根本的使命は人々の生活を支え、人間的自発性を育むことであると訴えたのである。

ニューヨーク日本館は、国際モダニズムと日本的空間感覚を統合し、「地域性に根ざした普遍性」という前川の理念を体現した。同時に、技術と環境、人間性の均衡という後の重要な論点を先取りする建築でもあった。この建物は、伝統と近代、楽観と不安、国家的誇りと人類的責任のはざまで、日本が模索した新しい自己像を象徴する作品といえる。

参考文献

松隈洋『建築の前夜 前川國男論』2016年 みすず書房

松隈洋『未完の建築 前川國男論・戦後編』2024年 みすず書房

日本貿易振興会『ニューヨーク世界博覧会参加報告書1964/1965』1966年

Subject:
Maekawa Kunio
Year:
1964-1965
Media Type: