池田健太郎は金沢に生まれ、1938年に渡米してニュージャージー州ローソンビル・スクールに学んだ。1940年に卒業後、プリンストン大学に入学した。1941年12月、真珠湾攻撃とともにアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、当時唯一の日本人学生であった池田の人生は大きく揺さぶられた。
指定された軍事地域には居住していなかったため、大統領令9066号による通常の強制収容所には送られなかった。しかしプリンストンのキャンパス内で「孤独な収容」と呼ぶべき状況に置かれた。戦争勃発後に「敵性外国人」と分類され、事実上の軟禁下で生活した。週ごとの出頭義務、無断での外出禁止、自動車の運転や所有の禁止、凍結された銀行口座へのアクセス制限、日本との通信禁止など、数々の制約が課された。
こうした状況の中でも学業を続け、戦時下に設けられた短縮課程プログラムで学んだ。1943年にはアメリカ市民である清水真理子と結婚したが、戦時下のため両親に連絡できず、大学は通常の規則を特例的に免除した。学生生活の後期からはエール大学でアメリカ兵に日本語を教える任務にも携わった。
戦後も法的障害は続いた。1924年移民法のため、学生資格終了後の米国滞在権は自動的には認められず、米国市民の妻や米国生まれの子を持ちながらも不安定な立場に置かれた。友人や大学関係者の支援でビザの延長を重ね、1952年のマッカラン=ウォルター法による改革を経て、合法的に移住することが可能となった。
その後はアメリカに永住し、家業の茶輸入業を発展させながら、プリンストンやニューヘイブンとの結びつきを保った。孤立や差別の中でも、池田は個人や大学から受けた善意に深い感謝を抱き続けたと伝えられている。
2022年10月、プリンストン大学理事会はロックハート寮のアーチを正式に「池田アーチ」と命名した。学生時代に暮らした寮であり、この命名は池田の記憶をとどめ、排除と勇気の経験を大学の歴史に刻むものとなった。
参考文献
Princeton University Archives. “Solitary Internment: Kentaro Ikeda ’44.” Mudd Manuscript Library Blog. December 7, 2017. https://universityarchives.princeton.edu/2017/12/solitary-internment-kentaro-ikeda-44/.
Princeton University. “Princeton Will Name Campus Arch for Kentaro Ikeda ’44, University’s Sole Japanese Student during World War II.” Princeton University News. October 4, 2022. https://www.princeton.edu/news/2022/10/04/princeton-will-name-campus-arch-kentaro-ikeda-44-universitys-sole-japanese-student.
University Archives at Princeton University
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