猪熊弦一郎:ニューヨークの街角に見た抽象と日常

猪熊弦一郎(1902–1993)は、日本の近代洋画を代表する画家の一人であり、戦後は鮮やかな色彩とユーモアに満ちた抽象作品で知られる。彼の芸術人生において、約20年にわたるニューヨーク滞在(1955–1975年)は、表現の自由を手にした転換点であり、都市のエネルギーと日常の感覚を描く彼独自のスタイルを確立する場となった。

香川県高松市に生まれ、東京美術学校で学んだ猪熊は、1930年代に渡仏し藤田嗣治に師事。帰国後は新制作協会の創設に関わり、日本の洋画壇で頭角を現す。しかし戦時中は図らずも戦意高揚の絵画制作に従事することとなり、戦後はその過去を積極的には語らなかった。

戦後、新たな表現と環境を求めた猪熊は、1955年、53歳で単身ニューヨークへ移住。友人でありパトロンでもあった建築家・吉村順三の支援を受け、マンハッタンにアトリエを構えた(当初は95丁目、その後チェルシーの21丁目に移転)。¹ モダンアートの中心地であるこの都市で、猪熊は名も肩書きも知られぬ一画家として、匿名性と創造の自由を満喫した。

ニューヨーク時代の猪熊作品は、具象から抽象への明確な転換を示す。街の標識、人々の影、動物、建物など、都市の日常をモチーフに、線や円、にじんだ筆致と明快な色彩で描いた。「日常のすみに見えるものを描く」と彼は語っている。作品《人間の都市》(1959)は、都市の雑踏と人間の存在をユーモラスかつ象徴的に捉えた代表作である。

この間、バーサ・シェイファー・ギャラリーなどで個展を開催し、アメリカの批評家や収集家から注目された。一方で、日本とのつながりも維持し続け、東京での展覧会開催や上野駅壁画の制作(1951)などを通じて二国間を往復した。

1975年に帰国し、1991年には故郷・丸亀に自身の名を冠した「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(MIMOCA)」を設立。晩年も公共空間へのアートを展開し続けた。

今日のアメリカでは知名度が高いとは言えないが、猪熊のニューヨーク滞在は、戦後日本人作家による越境的表現の重要な一章をなす。彼の作品は、都市のリズムを軽やかにとらえる「日常の抽象」として、国境を越えたモダニズムの証しとなっている。

参考文献

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(MIMOCA)編『猪熊弦一郎 ニューヨーク時代』(丸亀:MIMOCA、2002年)。

Subject:
Genichiro Inokuma
Year:
1902–1993
Media Type:
TAGS: