江見(清木)順子 医師(1933–2017): ニューヨークの日系社会に貢献した先駆的医師

江見順子は、40年以上にわたりニューヨークにおける日本人・日系アメリカ人コミュニティに医療面で貢献した先駆的存在であった。1933年10月18日、広島県に生まれ、幼少期は父・清木美徳が長崎大学の物理学教授として勤務していた関係で長崎で過ごした。1945年の原子爆弾投下当時、彼女は長崎に住んでいましたが、幸運にも休暇で韓国に滞在しており、被害を免れました。後に家族は、山口県徳山(現在の周南市)へ移住した。徳山は清木家の縁ある土地である。

長崎大学医学部に入学後、九州大学医学部に編入し、1958年に卒業。90人を超える学生の中で女性はわずか2人という環境において学業を修了したことは、当時の医学界における女性進出の困難さを物語ると同時に、彼女の卓越した能力と強い意志を示している。卒業後、20名のみが選ばれるフルブライト奨学金を獲得し、1959年から1960年にかけてウィスコンシン州ミルウォーキー・カウンティ病院でインターンとして勤務した。

1960年にニューヨーク市へ渡り、アルバート・アインシュタイン医科大学付属モンテフィオーレ病院で神経内科のレジデントとして研鑽を積み、その後、米国国立衛生研究所(NIH)のフェローシップを修了。この間、友人の紹介を通じて、海軍軍医であった江見啓司と出会い、1961年に結婚。ブロンクスのリヴァデール地区に居を構え、夫とともに内科・小児科を専門とする開業医として診療所を運営した。

診療所は自宅に併設され、ニューヨーク近郊に暮らす多くの日本人家族の健康を長年にわたり支えた。静かな強さ、鋭い診断力、深い共感力を備えた医師として、日本語話者コミュニティの信頼を集める存在であった。2002年に病により引退した後も、患者たちからは尊敬と感謝の念が寄せられ続けた。

晩年は、子の家族に近い環境で暮らすためブルックリンのパーク・スロープに転居。最晩年には身体の自由が制限されていたが、近所の散歩や家族との静かな時間を楽しんだ。2017年8月18日、脳卒中の合併症により83歳で死去。

江見順子の人生は、戦後に渡米し、静かに、しかし確かなかたちでニューヨーク社会の一端を担った日本人移民の経験を象徴する。医師としての専門性、後進への影響、文化的な橋渡しの役割は、今も多くの人々の記憶に刻まれている。

参考文献

  • 江見順子略歴(日本人会〈JAANY〉事務局長・野田道代編、JAAアーカイブ所蔵)

  • “Dr. Junko Seiki Emy Obituary,” Dignity Memorial, 2017年8月
    https://www.dignitymemorial.com/obituaries/brooklyn-ny/junko-emy-7528619

  • Otsuka, K.「日本の医学における女性の歴史的考察」『日本医学ジャーナル』1999(戦後日本の医学部における女性進出に関する背景資料)

Subject:
Dr. Junko Seiki Emy
Year:
1933–2017
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