アキコ・ミズタ・ザイテルバッハ ある長崎被爆者の物語

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「アキコ・ミズタ・ザイテルバッハ ある長崎被爆者の物語」若林晴子 ラトガース大学アジア言語文化学科

アキコ・ミズタ・ザイテルバッハは、20世紀の激動の時代を生き抜き、戦争、回復、そして人と人とのつながりの力を体現した人物である。1922年10月25日、中国・上海に日本人家庭のもとに生まれ、実母を早くに亡くした後、長崎に住む叔父夫婦の養女として育てられた。長崎では恵まれた環境の中で成長し、1938年に高校を卒業後、三菱電機に勤務した。

1945年8月9日、アメリカによって長崎に原子爆弾が投下された際、アキコは爆心地からわずか1.5マイル(約2.4km)の地点にいた。奇跡的に生き延びたこの体験は、その後の人生を大きく方向づけることになった。

終戦後、アキコは長崎でアメリカ海兵隊および連合軍占領軍の通訳として働き、そこで後に夫となるアメリカ兵レオ・ザイテルバッハと出会った。1953年に結婚し、アメリカへ移住。以降、人生の舞台は世界各地へ広がった。

1955年から1963年にかけて、夫妻はレオの軍務にともない、プエルトリコ、スタテンアイランド、ドイツで生活を送った。アキコは英語力と異文化への適応力を活かし、プエルトリコでは洋品店のマネージャー、ドイツでは軍の図書館職員として働いた。その後、夫妻はニューヨーク・ブルックリンに定住し、1980年頃にニュージャージー州モンロー・タウンシップの引退者向けコミュニティ「ロスモア」へ移住した。

ニューヨークでは、富士銀行やカネボウUSAに勤務し、75歳で退職するまでマンハッタンへの通勤を続けた。退職後は地域で日本文化を紹介する活動に力を入れ、とくに折り鶴を折ることを好んだ。

2004年、自らの体験を綴った回想録『Nagasaki Woman』を出版。以降、プリンストン大学やペンシルベニア大学をはじめ、学校や地域社会で講演を行い、BBCやラトガーズ大学によるインタビューも受けた。アキコの語りは、歴史的証言であると同時に、愛と友情、異文化間の理解とつながりの重要性を伝えるものだった。

アキコは2022年2月17日、99歳で永眠した。その人生は、戦争と核の惨禍を個人の視点から描く稀有な証言であり、同時に希望と和解の物語でもある。世界が再び戦争の危機に直面する今こそ、アキコの遺した「橋をかける」メッセージを継承していく必要がある。彼女の声は今も、国境を越えて人々の心をつなぎ続けている。

Subject:
Akiko Mizuta Seitelbach: The Story of a Nagasaki Atomic-Bomb Survivor
Year:
1922–2022
THEME:
Media Type: