内田祥三は、日本における近代的大学建築の形成に大きく貢献した建築家・構造技術者であり、国家的な危機の中で大学の自律性を守った指導者でもある。東京帝国大学工学部を卒業後、構造工学を専門とし、鋼構造や鉄筋コンクリート建築の荷重計算法に科学的手法を導入した先駆者である。これらの技術は20世紀初頭の日本において未だ新しいものであった。
1923年の関東大震災により東京帝国大学が壊滅的な被害を受けた後、内田は本郷キャンパス再建の指揮を執る。彼の策定したマスタープランは、現在のキャンパスの構成を形づくり、「内田ゴシック」と呼ばれる建築様式を導入した。これは、左右対称の構成、簡素化されたゴシック装飾、そして耐震・耐火性を重視した鉄筋コンクリート造を特徴とする。赤門から続く銀杏並木や安田講堂を含む多くの建物が、現在も大学の象徴的風景として残っている。
内田の建築思想は国外にも及び、1939年のニューヨーク万国博覧会では、日本館(神社様式)の設計監修を担当した。伝統的な形式と現代的な演出を融合させた建物は、国際舞台において平和的かつ洗練された日本像を伝えることを意図していた。
1943年、戦争の混乱のなかで東京帝国大学総長に就任。軍部による大学の帝国防衛本部への転用という圧力に対し、内田は強く抗議し、これを拒絶する。敗戦後には、連合国軍が大学を連合国軍総司令部(GHQ)の施設として接収しようとした動きにも抵抗し、大学の自治と機能を守り抜いた。
生涯を通じて、内田は工学と建築、そして公共性の接点に立ち続けた。技術革新と教育機関の独立性に対する深い信念をあわせ持ち、その構想力は今日もなお、彼の設計した建築群と制度的遺産に色濃く残されている。
戦後は文化財保護委員を務め、日本の文化的復興にも寄与した。その功績により、1972年11月に文化勲章を受章。日本学士院会員でもあった。享年87歳。技術革新と教育機関の独立性を重んじたその思想は、現在も内田が設計した建築群や制度の中に生き続けている。
参考文献
ウェブ参考資料